一撃男 | ナノ

Memento mori



…なにかが鳴っている。ナナシは音源の方へと手を伸ばした。

「はい…」
『あ、ナナシ?今日暇?』
「あー、うん。休み」
『んじゃ飲み行かない』
「いいよー。待ち合わせは何時もの所でいい?」
『うん。じゃ、七時に』
「あいあい」

電話を切るとナナシは一度大きく伸びをした。携帯の液晶に映る時計は十時を指している。寝すぎたな。そんなことを考えながらナナシは浴室に行ってシャワーを浴びる。顔を上げると、鏡に映る自分にナナシは何か違和感を感じた。

「ああああああ!」

髪の毛が、不揃いになっている。背中の中ほどまで伸びた黒髪の端、右サイドだけが肩程度でばっさりと切られていた。恐らく昨日ゾンビマンと怪人の間にナナシが割って入った時に切れたのだろう。帰ってからは思わぬ収穫に腹を満たしてそのまま鏡も見ずに寝てしまって気付かなかったのだ。
切れた髪から身元が分かるようなことはないと思う…。そう自分に言い聞かせながらナナシは宙を仰いだ。
今更回収しに行っても意味はないだろう。それよりもこの髪では飲みに行くのに不味いのではないか。ため息を一つついてナナシはとにかく浴室を出た。



「ナナシさんお久しぶりですね」
「ああ、はい」
「今日はどうしたんですか」

馴染の美容師の言葉にナナシは一つにまとめていた髪を解く。ばさりと揺れた髪を見て美容師は眉をひそめた。

「…なんか呪いでもしたんですか?」
「いや、ちょっと色々あって」
「はあ。じゃあとりあえずサイドは揃えて…いっそ全部短くします?」
「や、サイドだけでいいです」
「そうですか。じゃああと少し痛んでるんで毛先だけ整えますね」
「お願いします」

髪の毛を濡らしケープを被ってナナシは鏡の前に座る。手早く切り揃えられていく髪を見ながらナナシは目の前の雑誌に手を伸ばした。

「あれ、今日はコンタクトですか?」
「伊達眼鏡なんで」
「ああ。…ナナシさん本当綺麗な顔してんだから眼鏡止めて前髪短くしましょうよ」

頬まである前髪を摘まみながら美容師は何度も繰り返した誘いを口にする。それに対しナナシはいいです、と苦笑した。

「勿体ないなあ。本当顔出したらモデルとかいけそうなのに」
「あんまり目立つの好きじゃないんで」
「そう?でも髪の毛だっていい髪質だし髪型も色々遊べるのに」
「おしゃれする時間より睡眠時間のが大切ですねー」
「やっぱお医者さんって忙しいんだ」
「まあ、それなりに」

毎度行われるやり取りにうんざりしながらも、この美容師はまだしつこくない方でナナシは気に入っていた。以前行った美容室では本当に何度も何度も顔を出せだのパーマを当ててみないかだの言われて、帰る頃にはナナシはぐったりしてしまっていた。

「じゃあ今回も整えるだけで」
「お願いします」

前髪に鋏が入ってナナシは目を閉じた。数秒して爆発音とそれに伴う揺れを感じた。

「あ」
「え」
「…怪人かなあ、いやあ最近多くて怖いねえ」
「そうですねえ。…って今不穏な音と声がしたんですけど」
「…ごめんね」

ぽつりと落とされた言葉にナナシは恐る恐る目を開いた。鏡に映る自分を見てナナシは嫌な予感が的中したことを悟る。

「…私の見間違えですかね?前髪が眉くらいまでしかないんですけど」
「…うん。見間違えじゃないね」

鏡越しに見つめ合って数秒。無言で拝む美容師に責めるわけにもいかずナナシは頭痛を感じていた。しかも不運はそれだけではない。凄まじい音と共に窓が割れ突風が吹きこんできた。瞑った目を開くと、不幸中の幸いかナナシにも美容師にも怪我はないが、側にあったサイドテーブルは吹っ飛んでしまっていた。その残骸の下に、ナナシが先程までかけていた眼鏡がひしゃげて転がっている。

「…厄日かな、今日」
「とりあえず今日のカットはタダってことで…本当すいません」
「いや、うん…お兄さんが悪いんじゃないんで…ありがとうございます…」

遠い目をしながら薄く笑うナナシに、美容師は平身低頭謝りながら髪を切るのだった。こんな状況でも落ち着いて居られるのは日頃の怪人被害に慣れているからか、それとも突風により怪人が対峙されていることをお互い分かっているからか。
破れた窓から、緑色の髪をした少女が飛んでいくのを視界の端に捕えつつナナシは大きく息を吐いた。