小説 | ナノ




「どう?最近泳いでる?」
「溺れない様に必死ですよ」

静まり返った刑事課に、そぐわない明るい声がした。振り返らずに返せば、喉から漏れるような小さな笑い。

「昔は驚いてくれたのに。もう驚かないんだね」
「人間の順応性って言うのは凄いものですね」

ペンを置いて椅子を回す。明るいオレンジのスーツが、薄暗い中で存在感を発揮していた。最低限にまで抑えられた空調のせいで、肌寒い空気が二人を取り巻いている。しかし、カーディガンに隠れた二の腕に浮かんでいる鳥肌は、寒さのせいではない。雪が舞い散る外の寒さよりも凍てつくような、こちらを見下ろす凍えた瞳のせいだ。

「名前ちゃん」

声の調子は、変わらず明るい。その表情もにこやかで、気づかない人間はきっと気づかない。しかし一度気づいてしまえば最後。穏やかで威厳のあるその眼の奥の冷たさに、凍り付いて身動きを取ることも叶わない。

「名前ちゃん」

頬に触れる手が存外に暖かくて背筋が震える。目を細めて彼は笑った。

「ねえ、君はボクが…怖い?」

爛々と輝くその瞳が、私を射抜いて頷くことも、首を振ることもできない。そんな私を局長は楽しそうに愉しそうに見下ろして。

「名前ちゃん」
「は、い…」
「ボクはね、君が怖いよ」

訳の分からない言葉に、ぴくりと体が揺れる。ゆるゆると頬を撫でる手が、何時喉に掛かっても不思議では、なかった。

「君は、どこまで気付いてるんだろうねえ」
「な、にを」
「まったく、怖い怖い」

ちっともそう思ってなさそうな声音で彼は呟く。するりと滑った手が、想像通り喉を掴んだ。しかし、それは一向に絞まる気配はなく、私も動かないままだった。

「いっそ、ここで君が死んだら。怖くなくなるのかな」

苦しくはない程度に局長の手に力が籠る。どくどくと自分の脈が打つのを感じた。

「私が、死んだら。救われますか」

その恐怖とやらから。彼は伏せていた目を開いた。緑色の光彩が、何かを考えるように散らばって、収束する。

「救われるかも、しれないね」
「なら、どうぞ」
「随分と潔い」
「あなたは、溺れてはいけませんから」

そう、この人は溺れてはならない。

「どれだけ苦しかろうと、重かろうと。全てを背負って。あなたは泳がなくては」

溺れてもいい、その時が来るまで。

「溺れることは、許しません」

その為に必要なら、この手で絞め殺してくれて、いい。

「…本当に君は。どこまで知っているんだい」
「なにも。何も知りませんよ。だからこんなひどいことが言えるんです」

そう言って笑いかえれば、一瞬手に力が籠る。グッと息が詰まって眉を顰めた。しかし、その手は最後まで行くことなく、力なく落ちる。

「やっぱり名前ちゃんが死んだら困るなあ」

先程までの空気を払拭するかのように彼は笑って。

「君を亡くした後悔の方が、きっと大きい」
「そう、ですか」
「うん。だからさ」

最後まで付き合ってもらうよ、ボクが溺れる時まで。そう言って笑う彼の目は、やはり何よりも冷たい輝きを放っていた。


抗えぬ冷たさ
だから私は、頷くことしか出来ないのだ