小説 | ナノ




龍也先生、と声をかけられる。振り向くと自分の受け持ったクラスの生徒の名前だった。

「おう、どうした」
「どうしよう先生…パートナー、居なくなっちゃった」
「はあ?」

途方に暮れた顔をする名前に疑問符が浮かぶ。居なくなったって、どういうことだ。名前のパートナーはそれなりに将来有望そうな奴だった。名前の声質もよく分かっていて、仲も悪くなさそうだったし特に心配をしたことはない。

「一体どういうことだ?」
「…Aクラスの子と、隠れて付き合ってたらしくて。さっき校長が連れてっちゃった」

名前の言葉に顔を顰める。うちが恋愛禁止だというのは誰もが知っている。なんせ破ったら退学とまで言ってあるのだ。しかし、毎年何人かはそれを破って退学になっているのも事実。今年はその内の一人が名前のパートナーだったというわけだ。

「…そりゃ、どうすっかな」

頭を掻きながら俺もため息を漏らす。余程ずば抜けた素質があるなら、まだ情状酌量の見込みはある。しかし、連れて行かれたという奴はそこまででは、ない。

「先生、私、アイドルになれないかな」
「…曲の原型は出来てんだろ?ならそれを煮詰めりゃ…」
「…うん」

暗い顔をする名前の気持ちはよく分かる。作曲と言うのはそんな簡単なことじゃない。いくら原曲があるからとはいえ、曲作りの素人である名前に一人で人前に出すものを作れ、というのは酷と言うものだ。

「分かった。出来る限り協力はしてやる」
「先生…いいの?」
「ああ。まあ、毎年こういうことはあるしな。何でもかんでもやってやるわけにはいかねーが…アドバイスくらいは、な」
「ありがとう先生…!」

少し涙ぐみながらやっと笑った名前にドキリとする。…いや、ちょっと待てよ。
頑張るから!と意気込んだ名前が教室に戻るのを見送りながら、俺は高鳴った心臓を戻すことに精いっぱいだった。…待てよ。俺が、なんてありえねえだろ。

それから数か月。空いている時間に名前の曲を見てやりながら、卒業の時期が迫ってきた。初めは名前と二人っきりになるということに、少々不安があったが、特になんということはなかった。結局あれは気のせいだったのだと、一人安堵する。

「どうかな先生?」
「ああ。これなら大丈夫だろ。後はお前がしっかり歌いこむだけだな」
「うん。…先生、本当にありがとう」

俺を見上げてほほ笑む名前に、胸の内が暖かくなる。こうして言ってもらえて教師冥利に尽きると言うものだ。

「春ちゃん達にも御礼言っとかなきゃ」
「ん?何かあったのか?」
「うん。空いてる時間にね、皆がアドバイスとかしてくれたんだ!」

嬉しそうに笑う名前の頭をぐしゃりと撫でておく。こいつらはお互いがライバルだと自覚してるんだろうか。いや、どいつも皆芸能界で生きていく才能はある。同じ事務所に入れば、ライバルであると同時に仲間でもあるのだからいいと言えばいいのだろう。

「ねえ先生」
「ああ?」
「私、アイドルになれるかな?」
「…ばーか。俺とあいつらが手伝ったのになれなかったら怒るぞ」
「…そうだよね!頑張る!」
「おー、頑張れ頑張れ」

ガッツポーズを作る名前の頭をもう一度撫でて、レコーディングルームを出る。笑顔で手を振る名前を思い出して、子犬みたいだな、なんて笑ってしまった。


「せ、先生!先生!」

卒業オーディションを終えて、静かになった講堂に名前の声が響いた。明日の片付けの段取りを確認していた俺は、その声に振り返る。
未だに衣装に身を包んだままの名前がこちらへと駆け寄ってきた。その顔には満面の笑みが浮かんでいる。

「う、受かった!受かったよお!」
「知ってる。誰が発表したと思ってんだ」

勢いよく飛びついてきた体を抱きとめて苦笑する。こんな所を校長にでも見つかったらなんと言われるか。肩を掴んで少し体を離した。

「おら、冷えてきてんじゃねえか。さっさと着替えろ」
「うん。でも…先生にありがとうって言いたくて」

顔を上げた名前の瞳に、歓喜のあまりか涙が浮かぶ。それを見た瞬間、鈍器で頭を殴られたような衝撃と、胸の高鳴りを感じた。
曲を見てくれたお礼だか何だかをまくし立てる名前の言葉に、適当に頷き返す。切りのいい所で、名前の手を口で塞いだ。不思議そうに首を傾げる名前の瞳から涙が一滴零れて。

「…卒業式が終わったら、これからお前は生徒じゃない。先生なんてつけんなよ恥ずかしい」
「は、はい!」

手を外せば緊張感からか背筋を伸ばしていい返事を返す。そんな名前の体を反転させて早く帰れよ、と告げた。

「体調管理も仕事の内だぞ」
「はーい!先生本当にありがとございました!」
「おう。気を付けて帰れよ」

手を振る名前に振り返して、姿が見えなくなったのを確認する。そしてそのまましゃがみこんだ。

「…おいおい、嘘だろ」

彼女の涙が脳内をリフレインして。その度に心臓が音を立てる。…認めたくはないが、どうやら自分は。

「泣き顔に欲情するってアホか俺は…」

久方ぶりに思い出したこの感情に、名前を付けてもいいものか。大体、先生と付けるな、なんて馬鹿げたことを言って。熱を持ち始めた頬に冷えた手を当てる。だがしかし。冷えた空気や手で頭を冷ましても、この熱が消えてくれそうにないのも、事実だった。



彼女の涙は惚れ薬
泣く芝居があるような仕事はさせられない