小説 | ナノ




「局長、お金貸してください」
「…なに、どうしちゃったの急に」
「いや、局長は五千円までだったら貸してくれるって万才さんが」

ノックもなしに入ってきた名前ちゃんは、ズイッと手を出したままボクを見下ろしている。椅子に座っているため、名前ちゃんを下から見上げるという珍しい構図だ。

「早く貸してくださいよ」

動かない僕に名前ちゃんは拗ねた様に口を尖らせた。借りる側だっていうのに大物だよね、この態度。

「何に使うの?」
「煙草切れちゃって。いっそカートンで買っとこうかなって」
「ボクのお金で?」
「局長のお金で」

ひらひらと手を振る名前ちゃんをジッと見る。そんなボクに名前ちゃんは大きくため息を一つついた。

「貸してくれないんですか?」
「どうしようかなあ」
「…万才さんは誰にでも貸すって言ってましたけど。私は例外ですか」
「そうだねえ」

ムッとした顔をする名前ちゃん。でも、本当はそうしたいのはボクの方だ。

「もういいです。狩魔検事にでも借りますよ」

出て行こうとする名前ちゃんの手を掴む。振り返る前に思いっきり引っ張れば、名前ちゃんはボクの膝の上に居た。

「…なんの嫌がらせですかこれ」
「嫌がらせなんて酷いなあ」
「違うんだったら早く離してくださいよ」

煙草買いに行きたいんですってばー、と文句を零す名前ちゃんの小さな頭の上に顎を乗せる。

「ねえ名前ちゃん」
「はい?」
「なんで万ちゃんは万才さんなのに、僕は局長なのかなあ」
「は?」
「いや、呼び方の事だよ」
「いや、そりゃ分かってますよ」

名前ちゃんはどうにかボクの方を向こうとしているようだけれど、ボクが顎を乗せているのでそれは叶わない。少しの間格闘していたけれど、結局あきらめた様に息を吐いた。
…諦めてくれてよかった。きっと今のボクは子供みたいな顔をしているだろうから。

「そうですね…万才さんは上司ですから」
「ボクだって立場的には上よ?」
「…直属かそうじゃないかの差?」
「普通直属の上司のこと名前で呼ばないでしょう」
「他の上司も名前では呼ばないでしょうけどねー」

この体勢に慣れてきたのか、名前ちゃんの体から力が抜けて寄りかかってくる。小さな背中が触れている部分が熱く感じた。…思春期のガキみたいだねボク。

「万ちゃんは特別なの?」
「はあ。まあ特別っちゃ特別ですよね」
「…ふーん」
「なんの取り柄もない事務員秘書代わりにしてくれてるわけですし。おかげで生活が潤ってます」
「…ボクから五千円借りようとしたくせに?」
「カード入れ忘れちゃって銀行のカードもないんですもん」
「馬鹿だねー」
「言わないでくださいよ」

あー、煙草吸いたい、とぼやく名前ちゃんのお腹に回した手に力を込める。

「ねえ名前ちゃん」
「はいー?」
「ボクの事名前で呼んでみてよ。そしたら貸してあげる」
「は?いきなり何言いだすんですか」
「…呼んでみな、って言ったの。聞こえなかったかな」

声を少し低めれば、名前ちゃんの背中に力が籠った。

「…巌徒、局長」
「それじゃないって、分かってるでしょ」

口籠る名前ちゃんの耳に口を寄せる。ほら、と促せば、肩が少し震えた。へえ、耳が弱いんだ。

「…海慈、局長」
「局長は要らないよ」
「海慈、さん」

今にも消えてしまいそうな声音でボクの名前を呼ぶ。少しだけ鬱積した気持ちも晴れたけれど、まだ、足りない。

「聞こえないよ」
「…海慈さん」
「聞こえない」
「海慈さん」
「もっと大きな声で」

俯く名前ちゃんの顎を掴んで顔を上げさせる。無理やり天上へ向けられた名前ちゃんの顔は真っ赤だった。さかさまになった丸い目が、羞恥心からか涙ぐんでいて、酷くそそられた。

「名前ちゃ」
「局長の馬鹿!」

衝動のままに名前ちゃんに口付けようとしたら、腹部に強い衝撃。思わず手を離せば、名前ちゃんは警戒した小動物さながらの動きでボクから離れた。
キッとボクを睨んでから部屋を飛び出していったが、正直肩で息をしながら真っ赤な顔で睨まれても怖くない。
開け放たれた扉を少し眺めてから、財布を取り出して腰を上げた。

「約束はちゃんと守らないとね」

ちゃんと名前を呼んでくれたんだからお金貸してあげなきゃ。それに。
…あんな可愛い顔を他の奴に見られるのは癪だから、ね。
エレベーターが来る前に掴まえなきゃな、とボクは早足で彼女を追った。


逃げたうさぎ
追うのはライオン。早くしないと



←|
[back]