オペラ座 | ナノ
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あのブランディーヌの演奏を聴いた後、私は急いで自身の王国へと戻り曲を書き上げた。その前に書き上げたものも中々のものだとは思うがこれに比べたらなんとお粗末なものか!
私はスコアを書き上げたまま、少し転寝をしてしまった。今日は何日だろう?日にち感覚が狂っているが、腹の空き具合からして三日程経っているのかもしれない。凝り固まった体を解しながらキッチンで固くなったパンと簡単に作ったスープで腹ごしらえをする。体は休息を欲しているようだが、それを逸る心が許さない。一秒でも早くこの曲を彼女に弾かせてみなくては!
とはいえ、未だに彼女にどう接するかを決めていない。彼女がここに来てから一年近くが経っていた筈だ。その耳にも私の噂は入っているだろう。姿を現せば怯えるに違いない。一体どうするべきなのか…。

頭を悩ませつつそっと上に登って行く。舞台裏に出るといつも聞こえる姦しい子ネズミたちの声が聞こえなかった。不思議に思いながら少し考えて今日は休日だと気付く。きっとブランディーヌも妹たちと出かけたに違いない。
とんだ無駄足だと思いつつ今度の舞台の大道具などに目を通しておこうと思い立つ。最近は作曲にかまけていたからあの赤ら顔の馬鹿な男がサボっているかもしれない。

人に会わぬように気を配りつつ進んでいくと下卑た笑い声が聞こえた。陰に隠れながら覗くと、ああ、なんということだ!そこにはブランディーヌが居たのだ!
ブランディーヌはブケーの愚かな物言いを受け流す。しかし、それに苛ついたのかブケーはブランディーヌを突き飛ばしていった。もしもあの素晴らしい音楽を作り出す指に怪我でもしたらどうしてくれるのだ!頭に血が上り殺してやろうかとも思う。しかし、ブランディーヌが立ち上がろうと壁に手をついた瞬間血の気が引いた。
そこは私の隠し通路のあるところだったのだ!止めることも叶わずブランディーヌが力を込めたことによって扉が開かれる。ブランディーヌは訝しげな顔をしながらそこを覗き込んだ。
きっとあの子はあの中へと入っていくだろう。好奇心旺盛な子供の事だ!きっと何も考えずにずかずかと踏み入るに違いない!
そう、あの子は子供なのだ!きっと私と会ったら何も考えずに周りに吹聴するだろう。そして私はあの愚かな支配人どもに追い立てられるかもしれない!そうでなくとも彼女はこの仮面の下の醜い姿に興味を示すに違いない。そして不躾に踏みにじり、恐怖に怯えるのだ!
しかし、そんな私の考えとは裏腹にブランディーヌは少し考え込んだ後、扉を閉め全てを元通りにした。思わぬ行動に私は一瞬固まったが、すぐにこれはチャンスだと思い立った。
立ち去ろうとするブランディーヌに声をかける。不思議そうに周りを見渡すブランディーヌに再度言葉を発する。何故妹の名を出したのか自分でも不思議だったが、彼女が双子の妹を健気にも守ろうとしている場面を時たま目にしていたからだろう。そう言えばきっと逃げずに立ち止まると。

「…そういうあなたは?ムッシュー?」

細められた目には警戒心が浮かぶ。子猫の様に威嚇するその姿にほくそ笑んだ。

「ゴーストと言えばお分かり頂けるかな?」
「ゴースト?…ああ、知っていますよ」

更に警戒を強めるように眉が顰められた。そして年には似合わぬ冷笑を浮かべる。

「ゴーストと言うくらいですから夜に現れるものとばかり思っていましたが…違ったようですね」
「ああ。私は何時なんどきもこのオペラ座に居るのだよ」
「そりゃあ凄い。で、そのゴースト様が一体この雑用係に何の御用で?お供え物でもご所望ですか」
「随分と失礼な物言いだな」

ブランディーヌの発言につい険のある声が出る。それを感じ取ったのかブランディーヌは挑発するように鼻で笑った。

「姿も見せぬ方に敬意などはらえませんよムッシュー。大体あなたは私を知っているようだが私はあなたを知らない。名くらい名乗ってくださってもいいと思いますが」
「…ゴーストに名前があるとでも」
「ゴーストと言うくらいなのですから元は人なのでしょう?名前がなければそこらに居るらしい他のゴーストと一纏めにしますが」

小賢しい言い方が鼻につく。ヴァイオリンは素晴らしい才能を持っているようだが、どうやらその分性格を犠牲にしているらしい。

「…では御機嫌よう」

踵を返そうとするブランディーヌに嫌々ながら口を開く。全くこの私がこんな子供に屈辱を味合わされるとは!

「エリックだ」
「姓は」
「…ない」

そう、私に名乗れる姓などあるものか!母に忌み嫌われ捨てられた私に家などなく、見世物として生きてきたのだから!
彼女にヴァイオリンの才能がなければここで首を括ってやったのに!激しい怒りに苛まれながら歯ぎしりをするのをどうにか抑え込む。そんな私の方をブランディーヌは声の位置から辺りを付けたのか振り返り、頭を下げた。

「失礼な態度をとり申し訳ありませんムッシュー」

先程とは真逆の態度に拍子抜かれる。上げた顔には微笑みが浮かんでいた。

「いきなり声を掛けられた上に私と妹の事を知っていたのでつい警戒してしまって」
「…もうその警戒とやらはいいのかね」
「あなたは私に名を名乗ってくださいました。礼儀を知っている方には私も礼儀を持って接さなくてはいけないでしょう?」

そう言って笑うブランディーヌはそこらに居る子供と同じようだ。しかし、それが違うということは今のやり取りだけでよく分かった。類稀な才能を持つだけではなく、年齢に見合わぬ狡猾さを持ち合わせている少女。それが、ブランディーヌと初めて会話をした私の印象だった。

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