オペラ座 | ナノ
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顔を洗い終わった私は未だに眠り続ける天使へと近づく。

「ほら、ロッテ起きなさい」

小さい頃の愛称を呼べば、微かに眉が顰められる。その姿にもう少し寝かせてやりたいとも思うが、今日はメグと遊びに行く日だ。起こしてやらねば叱られてしまう。

「私の可愛いロッテ、起きないとメグとの約束に遅れてしまうよ」
「う、ん…」

頷き返すもまだまだ起きる様子はない。

「こら、布団に包まるのをお止め。そのままメグの所へと連れて行ってしまうからね!」

荒療治だが冷えた手で頬を撫でればやっと目が開いた。ぱちぱちと瞬きする瞼に一つキスを落とす。

「やっと起きたねお寝坊さん。朝ご飯に間に合うかな?」
「おはよう、ブランディーヌ」
「ああ、おはよう。さあ、顔を洗って着替えなさい」

体を起こすのを手伝い、少しばかり冷えてしまった頬にキスして着る服の準備をしてやる。白のデイ・ドレスを手に取りながら、いつか仕立てのいいものを送ってやりたいとため息が出る。こんな身の上だから仕方ないと言ってしまってはそれまでだが、古着ばかりでは着飾りたい年頃になったクリスティーヌには可愛そうだ。有力なパトロンがいる先達がドレスを配る際に子ネズミちゃん達が集る姿を見る度、この決心は一段と大きくなる。クリスティーヌにはあんなはしたない真似をさせたくない。とはいえ、今の小銭稼ぎではいつ買ってやれるのか。考えるだけで頭が痛かった。

「どうしたのブランディーヌ?」
「なんでもないよ。さあ、これに着替えて」

着替え終えたクリスティーヌを食堂まで送り届ける。

「愉しんでおいで」
「ブランディーヌも行きましょうよ!」

後ろから来たメグの明るい声に振り向く。今日も無邪気な笑みを浮かべるメグの頬に挨拶のキスを送る。

「残念ながら仕事があってね」
「もう!ブランディーヌったらいつもそればっかりなんだから!」
「すまないね、出来ればエスコートの一つもしてあげたいんだが」

腕に絡みつくメグの頭を宥めるように撫でてやる。少し満足したのか、離れたメグがちらりと上目づかいをした。

「じゃあ今度休みが合ったらエスコートしてちょうだい、約束よ?」
「こんな可愛いマドモアゼルに誘われたら断れないな」

軽く肩を竦めれば満足げな顔をしたメグはクリスティーヌの手を取って駆けて行った。それを見送ってから自分も軽く何か食べようかと考える。子ネズミちゃんたちの様に外出に関してはそこまで厳しくもないので外に出てサンドイッチを買って戻る。その間にも楽しげな笑い声をあげながらオペラ座から出ていく少女たちとすれ違った。
マダムはクリスティーヌに無事お金を渡してくれただろうか。楽しんでくればいいけれど。行儀が悪いのは承知で食べ歩きつつブケー氏が居るであろう舞台裏まで向かう。

「おはようございます」
「おお。…お前も哀れだなあ、他の嬢ちゃんたちは遊びに出かけたっていうのによお」

朝っぱらから酒臭い息で皮肉を吐くブケー氏に曖昧に笑っておく。この人は何かをこき下ろして居たいタイプの人なのだろう。それは最近カルロッタに押され気味なプリマドンナだったり、噂の怪人だったり、哀れな身寄りの私だったりするわけだ。そんな人の言葉に一々一喜一憂するのも面倒くさい。それにまあ、気が向けば菓子やらつまみやらをくれることもあるし心底悪い人でもないのだろう。
しかし、今日は随分と機嫌の悪い日だったようだ。気に掛けた様子の無い私に苛立ったのだろう。仕事を言いつけて去る際に思い切り肩にぶつかられる。体格差もあり勢いよく転んだ私を鼻で笑って彼は去って行った。
…きっと役者さんたちは休みなのに自分は働かなくちゃいけなくてイライラしてたんだろう、うん。
自分に納得させるようにそんなことを考えつつ立ち上がろうと壁に手をついた。力を籠めた瞬間、その壁がぐらりと奥に開く。再度体勢を崩しそうになったがなんとか押し留まった。

「…なんだこれ」

思わず独り言を零しつつ中を覗く。真っ暗な中は光源の乏しいここでは奥まで見えない。しかし、どうやら通路の様になっているようだ。
部屋ならば今は使われていない物置かとも思えたが、どうやらそうではないらしい。風の流れも感じるしどこかに繋がっていると考えるのが普通だろう。
少しばかり考え込んでからまた先程と同じように壁のように見える扉を閉めた。多分これはあまり触れない方がいい類なものだ。
人が二人以上いれば隠し事は生まれる。自分に不利になりそうなものならば暴くことも考えるが、関係のないことまで暴くのは愚か者のすることだ。特にここはオペラ座である。上流階級の人々の社交場で、多くの人々が生活する場だ。秘密の通路くらいあっても仕方ないだろう。ボックス席なんかじゃ逢引きまであるのだ、もしかしたらその類かもしれない。
舞台裏にあるということは役者同士か…もしくはスリリングな一時を楽しみたいパトロンでも使うのか。そんな仮定を立てつつばら撒いた小道具を直し、置いてあった通りに戻した。
まあ、なんにせよ人の隠し事と言うのはあまり触れるべきではない。知らねばならぬことならばまたいつかそう言う時が来るのだろう。

「そこの君」

どこからか声が聞こえる。顔を上げて周りを見渡すが誰もいない。空耳かと思った瞬間また声がした。

「ブランディーヌだね、ブランディーヌ・ダーエ…クリスティーヌの双子の姉」

クリスティーヌの名が聞こえなければこんなわけのわからない状況無視していたかもしれない。しかし、あの子の名が出たからにはそうはいかないのだ。

「…そういうあなたは?ムッシュー?」

この時はまさか、見ないことにした隠し事に巻き込まれるだなんて、考えてもいなかった。


開かれた暗闇への道

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