オペラ座 | ナノ
[ 1/2 ]

マダムの部屋の扉をノックすれば、落ち着いた声が返って来る。名を告げれば扉が鈍い音を立てつつ開いた。…今度油でも差して上げよう。

「このような時間の訪問お許しくださいマダム」
「構いませんが…どうしたのですか」

寄宿舎の子供たちは皆寝静まった夜更け。わざわざお茶を入れてくれたマダムに頭を下げる。一口飲んでから、懐から小銭入れを差し出す。

「明後日クリスティーヌ達は休みでしょう?メグと遊びに行くと聞いて…これを渡してやってください」

受け取ったマダムが驚いたような、訝しげな顔をした。

「これは…あなたのお給金にしては多いように思えるけれど」
「それはあまり聞かないでください」

肩を竦めれば、マダムが何とも言えない顔をする。苦笑しつつ疾しい事ではないですよ、と言っておいた。…夜中抜け出すことは疾しいとは思うが、マダムが想像しているであろうことよりは如何わしくないしこれくらいの嘘はいいだろう。というか、このやり取りも数度目なのだが。まあ、それだけ心配して貰ってると言うことだろう。ありがたいことだ。
マダムは少し思案した後分かりました、とため息を吐いた。心配ばかりかけて心苦しい事だ。

「でも…あなたから渡せばいいのではないですか」
「あの子は遠慮するでしょうから。父の遺産はあなたに任せてある、といってありますから疑問にも思わないでしょうし」
「…ブランディーヌ」
「なんですか?」
「あなたは、クリスティーヌの事ばかりで自分の事を蔑ろにしているのではなくて?」

マダムの言葉に顔から表情が抜け落ちるのを自分でも感じた。一瞬伏せた目をマダムに真っ直ぐにぶつける。

「あの子は、クリスティーヌは私の妹ですよマダム。妹を思わぬ姉がどこにいるというのでしょうか!」

少々わざとらしい位に声を上げる。

「あの子は私の天使なのです。物心ついた時から私の隣にはあの子がいた。純粋に疑うこともなく私の手を取って!そんなあの子を幸せにしようと思うことの何が間違っているというのです!」
「ですが…あなただってあの子と同じ子供なのですよブランディーヌ」
「…ええ。でもあの子は妹で、私は姉ですよマダム。それは覆しようのない事実であり、私の誇りなのです!」

残っていた紅茶を一息に流し込み、腰を上げる。

「おやすみなさいマダム。いい夢を」
「…ええ、お休みなさい」

まだ何か言いたげなマダムを置いて私は廊下へと滑るように出た。
自分の部屋へと歩きながらあんな言葉に反応した自分を恥じる。…自制心と言う言葉を忘れぬようにしなくては。とはいえ、マダムの言葉が私の琴線を揺さぶったのも事実で。
…クリスティーヌは、私の天使だ。幼かった私は、周りの子供たちとは毛色が違った。自分で言うのもなんだが、ませているというのを通り越した子供だったのだ。よく言えば頭のいい子で、はっきりと言ってしまえばどこか狂っていた。
他の子供たちの様に駄々をこねるわけではない私を始めは誰もが聞き分けのいい子だと思う。しかし、接していくうちに分かってしまうのだ。私が周りの子供たちとは違うと。どこに飴の一つでも渡せば無邪気に喜ぶような年齢の子供が自分たちの言動の裏まで読めると思う人物がいるだろう!私は見た目と中身がちぐはぐだったのだ。外見は幼子だが、一皮むけば誰もが私を嫌った。父に再婚の話も有ったし、父が乗り気なこともあった。しかし、誰もが私と接していくうちに薄気味悪さを感じて去って行ってしまう。そんなことを繰り返す内に父は増々芸術の世界にのめりこんでいった。まるで何かから、私から目を逸らすように。…いや、そうではないな。
とにかく、そんな私の側にクリスティーヌは何時だって居てくれた。私の手を取って純粋無垢に笑ってくれるのだ!私がどんなにそれに救われてきたことか!!
私は自分を蔑ろにしているのではない。ただ、恩を返しているだけなのだ。私を孤独にしないでくれた、愛してくれたクリスティーヌに!そしてこの恩は、返しても返しても終わらない。


ひんやりとした空気の中目を覚ます。いつもよりも布団の中が暖かいのは隣に眠るクリスティーヌのお蔭だろう。彼女が普段使っている掛布団よりも粗雑な作りの薄いものだからか、ぴたりと寄り添うクリスティーヌを眺めた。口に入ってしまいそうな髪の毛を、起こさない様に撫でつける。
可愛いなあ、と思う。長く伸びたまつ毛は影を作り、寝息を立てる小さな口はぷくりと柔らかそうだ。丸みを帯びた頬は手触りが良く、顔の周りを覆う緩やかなウェーブを描く栗色の髪がふわふわとしている。今は瞼の裏に隠れている瞳の柔らかな色合いを思い浮かべれば、思わず頬も緩むというものだ。
額に一つ口付けを落としてそっと布団から這い出る。出来る限り外気は入れないようにしたのだが、ぶるりと震えた体に布団を巻きつけて顔を洗いに洗面台に向かう。
かじかむ様な冷たい水を手一杯に貯めてばしゃばしゃと何度か洗うと側に掛けてあったタオルで乱暴に拭う。顔を上げると、目の前の鏡に自分が映った。
…近頃は幾らか少なくなったが、今まで何度となくクリスティーヌと私は似ていると言われてきた。しかし、私にはそういう人々の神経がよく分からない。クリスティーヌは天使だ。彼女が微笑めば誰もが心安らかになることだろう。悲しげな顔をすれば誰もがその痛みを慮り同じように嘆くに違いない。
私とクリスティーヌは違う。あの子には輝かんばかりの美しさがある。それはクリスティーヌの純粋さから来るものだ。嬉しければ笑い、悲しければ泣き。心隠すことなく、くるくると変わる彼女のその表情が、あの子を天使たらしめている!
私の持論だが、美しさとは造形だけではない。勿論、それも重要だとは思うが。何よりも大切なことは思いを表しているかどうかなのだ!多くの人を捕え続ける絵画に共通するものはその描かれたものから何かを感じる取るということだ。微笑みに慈愛を見出し、眉を寄せた女性に悲哀を見つける。クリスティーヌはそこに置いても完璧だ。造形も、包み隠されることなき表情も。それに比べて私ときたら!いつも愛想笑いというか薄笑いを浮かべた道化の様である!そんな私とあの子が似ているなんてなんていう愚弄!クリスティーヌに泣いて詫びるべきだ。
…どれだけ細かな作りが私の天使と似ていようと、私とあの子は違う。あの子は天使で私は薄汚れた道化の人形だ。

「だから私は、君を守り続けるよクリスティーヌ」

君がいつまでも純粋で美しき天使であり続けるように。

[*prev] [next#]