オペラ座 | ナノ
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父が、死んだ。動かなくなった父に縋るクリスティーヌのか細い肩を抱きながら、今後どうするべきかと頭を悩ませる。私たちは未だ幼く、なんのコネも力も持ってはいない。父はそれなりに名の通ったヴァイオリニストではあったが、その遺産も周りの大人たちに食いつぶされるだろうことは容易に想像が付いた。可憐な声を引き攣らせて泣きじゃくるクリスティーヌを抱き寄せる。父が死んだことは悲しい。とてつもなく悲しい。しかし、私は泣いては居られないのだ。この腕の中に居る小さな天使を守らなくてはならないのだから。

身寄りを亡くした私たちを引き取ったのはオペラ座でバレエを教えているマダムジリーだった。どうやら生前の父となんらかの関わりがあったらしい。詳しくは知らないが。元々バレエをしていたクリスティーヌは同い年の子供たち、特にマダムの娘であるメグと関わる内に少しずつ笑顔を取り戻していった。
今もメグと楽しげに話すクリスティーヌの横顔を眺めながら胸を撫で下ろす。一時は真面に食事も摂らずいつ後を追ってしまうのかと目が離せなかったが、どうやらそれは杞憂に終わったらしい。

「ブランディーヌ!」

壁にもたれかかっていた私に気付いたメグが弾けんばかりの笑みを向ける。振り返ったクリスティーヌも同様だ。そんな二人に小さく手を振った。二人は私を呼び寄せるように手招きしたが、それに首を振って行けないと伝える。不思議そうにした二人が口を開く前に私の名前をだみ声が呼んだ。

「おい!釘が足りねえぞ!」
「今持ってきます」

怒鳴り声がした扉の先に返事をしてから二人に肩を竦めて見せる。何とも言えない顔をした二人に笑顔を一つ向けてから私はあの赤ら顔の所望した品を取りに薄暗い裏方へと戻った。
クリスティーヌには美しい声と、可憐なダンスがあった。しかし、私が持ち得ているのは父が教えてくれたヴァイオリンの腕だけだ。それもまだまだ未熟なもので、なんの使い道もない私がこのオペラ座に居るためには、こうした使いっ走りをするしかない。とはいえ、そんな身の上を哀れに思ったのか支配人が小遣い程度の給金を出してくれることになっている。孤児院に入って悲嘆にくれるクリスティーヌと身を寄せ合って生きるより比べ物にならない待遇だ。
それに時たま気が向いた時にオケの人々が稽古をつけてくれる。クリスティーヌが笑っていて、ヴァイオリンが弾ける。それだけで不満のない日々だと、そう考えていた。


「それでね!今日はメグと…」

頬を紅潮させながら今日あったことを話すクリスティーヌは本当に可愛らしい。時たま頬を撫でながら相槌を打てば、手がくすぐったいのか鈴を転がすような声で笑った。
このままずっと話を聞いてあげたいが、もうすぐ消灯時間だ。話の区切りがついた所で頬に一つキスを落とす。

「もう部屋にお戻り。明日も稽古だろう」
「今日はブランディーヌと一緒に寝たいわ…」
「それは休みの前の晩だけだと約束した筈だよ。さあ、急がないと風邪を引いてしまうよ」

もう一度キスをすれば渋々といった様子で出て行ったクリスティーヌを見送ってから準備を始める。と言っても帽子を目深にかぶりヴァイオリンを持つだけなのだけれど。
バレエの寄宿生として扱われるクリスティーヌは他の子達と相部屋だが、ただの雑用係の私にはそんな大層なものはない。倉庫のようになっていた部屋に質素なベッドと小さな箪笥があるだけだ。マダムやクリスティーヌなどはその扱いに不満があるようだが、私には特になかった。寝る為だけの部屋なのだからベッドがあればいいし、何よりここは抜け出しやすい。私は今日も窓から外へ抜け出し、歩を進めた。


オペラ座から少し歩けば、華やかな装いの人々がいる場所から暗い路地が顔をのぞかせる。その中を慣れたものと歩き続け、一つの通りに出る。
通りにはけばけばしい化粧を施した女とそれを見定めるように歩く男の姿が見受けられた。最近は景気がいいせいか、中々人通りが多い。ほくそ笑みつつ定位置となった場所に辿り着く。

「あら、今日も来たの?」
「ええ」

顔なじみになった女に微笑みつつ頷く。この通りに不釣り合いな私に男たちが視線を送った。

「なんだあの餓鬼は」
「ああ、あの子?たまに来てはヴァイオリンを弾いていくのよ。中々の腕前なの」

客を捕まえて上機嫌の女が腕を取って近づいてくる。それに誘われるように何人かが集まったのを見てからヴァイオリンを構えた。
一曲弾き終えた頃には先程よりも増えた人からまばらな拍手を頂く。それに一礼ししてからまた一曲。数曲を弾き、深々と頭を下げれば気をよくした男達から開けたケースに小銭が放り込まれた。それをちろりと確認して潮時だな、と判断する。

「では、またいつかの機会に」

手早く小銭を纏めてケースを背負いその場を立ち去る。また来いよ、という声にひらりと手を振った。
来る時よりも重くなった小銭入れを感じつつ、これで今度の休みにメグと遊びに行くと言っていたクリスティーヌに小遣いをやれると一息つく。
父の死んだあと、結局遺産の大半は知らぬ他人に持って行かれてしまった。自分の力不足といえ口惜しい。だが、それでもあの可愛い妹に惨めな思いをさせたくはなかった。だからこうして夜な夜な小銭稼ぎに精を出すのだ。
夜風が首筋を撫でて身震いをする。肩甲骨より下まで伸ばした髪はこちらに来たとき切ってしまった。クリスティーヌには仕事の邪魔だから、と言ってある。まあ、それは嘘ではない。しかし本当の目的はこうして夜で歩くには少女と思われるよりは少年と思われた方が都合がいいからで。それにはなんの後悔もしていない、筈だ。しかし、風が冷たいせいだろうか。なんとも言えない侘しさの様なものを感じつつ、歩調を速めた。

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