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彼女の表情と言葉にまた思考が固まる。今日だけで何度目だろうか。こんな無防備な姿をさらすなど怪人の名が泣くな。
「あー…、先ほど言ったことからゴーストではないと思っていましたし、その場合は…そう、だと思ってたんです」
何も言わない私にブランディーヌは困ったように頬を掻きながら説明する。ほんの少し口籠ったのは、怪人と言う言葉を躊躇ったからだろうか。悍ましいその名を口にしたくないと。
「…驚いたな、よくそこまで分かっていて今までここに来れたものだ」
彼女は私が怪人だと分かった理由に鍵が開けられる、と言っていた。つまり、初めてここの扉を開けた時からそうではないかと思っていたということだ。だというのになぜ彼女は拒否することもなく私の言いつけに従ったのか。…そんなこと、分かり切っている。
「私の言葉に背けば何か災いが起こるとでも思っていたのだろうが」
そう、どうせそんな所だ。何が起きるか分からない。そんな恐怖からここに通っていたに違いない!つまり、ブランディーヌが今まで私に向けた微笑みも、別れの言葉も!全て、全て偽りだったのだろう!
「全く、お前はいい役者になれるだろう!」
この私に感じているだろう一切の恐怖を感じ取らせなかったのだから!
怒りを込めて睨み付ければ、ブランディーヌもきっと今まで隠したものを曝け出すだろう。顔を歪め、嘆くのか、それとも逃げるか。そう思っていたが、見下ろしたブランディーヌは何時もと変わらない感情の読めない微笑みを浮かべていた。
「何を笑っている!気でも触れたか!?」
「いや、なんだか可愛らしいなあ、と」
あまりに突拍子の無い発言に怒りも何も一瞬忘れてしまう。呆然としていた私の手に、ブランディーヌの手が触れて意図せず肩が跳ねた。
「先生。私があなたを恐れていると思いますか」
「…恐れていないはずがない」
「では、私の手は、声は震えていますか」
その言葉に目を向ければ、ブランディーヌはジッと私の方を見つめていた。その眼も、声も、私に触れている手すら揺れてはいない。
「冷たい手ですね」
笑ったブランディーヌがもう片方の手も取り、両手で挟むようにする。そこから伝わる温かさに、形容し難い感情が溢れてきた。
「…お前の手は、暖かいな」
「ええ。子供ですからね」
子供らしからぬ事を口にしながらブランディーヌは手をすり合わせるように動かす。少しずつ互いの体温が同じように温もっていく感覚に居心地の悪さを覚えた。…こんなことは母だってしなかった。
真冬で手が氷の様に冷たくなっても私の手を取って温めてくれるものなど、居なかった。自分で自分の手を握っても温かくなんてならなくて。その冷たさに身を震わせながら朝を待った。
「クリスティーヌもね、冬になると手がすぐ冷たくなって。こうしてあげると喜んだものです」
その時のことを思い出しているのか、慈愛に満ちた表情でブランディーヌが呟く。
「さ、温かくなりましたね」
そう言って離された手に名残惜しさを感じる。それも仕方あるまい。この世に生を受けてからずっと、私は与えられることのない人の温もりを求め続けてきたのだから!だからそう、離れかけたブランディーヌの手を握りしめてしまったのは、致し方のない事なのだ。
ブランディーヌはその手を叩き落とすこともなく、そっと握り返してきた。小さなその手は、私の手の中にすっぽりと納まってしまう。柔らかなその感触に、私は酷く泣きたくなった。
「先生。私は先生の事怖くなんかありませんよ。だって、これ以上ない位いい先生だって知ってますからね」
「皆が恐れるオペラ座の怪人だとしてもか?」
「ええ。人の印象なんて立場で変わって見えるものですよ」
いたずら小僧の様にニッと笑うブランディーヌはやはり子供らしくないことを言う。しかし、その言葉に誰よりも救われたのは私だ。
その一言がどれだけ私を救ったのかを、目の前の少女は知らない
おまけ
「…もう遅い。今日の稽古は中止だ」
「分かりました」
「…明日から暫く毎日ここに来なさい」
「え」
「何か問題でも?」
「いえ…でも何故」
「…傷の治療しなければならないだろう」
「…ああ、はい。ありがとうございます」
納得したように頷くブランディーヌに拍子抜けする。なんせ彼女はここ毎晩稽古がない限り小銭稼ぎに精を出していたからだ。少しくらいは渋られるかと思ったが…。
ジッと見つめれば不思議そうに首を傾げるブランディーヌに力が抜ける。来る、と約束したのだからそれでいいだろう。彼女が約束を破ったことは今までの所、一度もないのだから。
「では、おやすみなさい先生」
「おやすみ。…いい夢を」
私の目を見て笑うブランディーヌに、ぎこちないながらも笑い返せて、居ただろうか。
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