オペラ座 | ナノ
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その日オペラ座は少しざわついていた。来ていなかった昼の間に何かあったのだろうか。時たま彼女の、ブランディーヌの名が聞こえる。詳しく聞こうにも多くの者が居る中では紛れて消えてしまった。
一体何があったのだと自然早くなる足を抑えつつ、ブランディーヌの部屋にレッスンを行うという旨の手紙を置いておく。実際に会った時に聞けばいい、そう考えながら時間が来るのを礼拝堂の天使像の裏で待つ。
重たい音と共に扉が開いた。壁の穴から彼女を覗き見て息を飲む。彼女の頬には大きなガーゼが貼られていたのである!

「先生?」

何も言わない私を訝しそうにブランディーヌが呼ぶ。首を傾げたことで更に白いガーゼが目立った。

「そ、れはどうしたんだ!」

いきなりの怒鳴り声にブランディーヌは目をぱちくりとさせた後、へらりと笑った。

「このオペラ座の事ならなんでも知ってそうな先生でも知らないことがあるんですねえ」
「ああ。あるさ。だから何があったかと聞いてるんだ!」

ブランディーヌは側に置いてあった椅子を引き寄せ、話し始める。事の顛末が分かると私は頭を抱えたくなった。

「何故そこで飛び込んだんだお前は…!」
「いくらスキャンダルは飯の種…といっても流石にダンサー同士の傷害事件だと問題ですからね。雑用係の私ならそこまで話も回らないでしょうし」

賢明な判断だったと思うんですが、と苦笑するブランディーヌに怒りが込み上げてくる。彼女の顔はどこに出しても問題がない。中性的で少女らしさは薄いが、美しい顔立ちともいえるだろう。こうして顔を隠さねば生きていくことの出来なかった私からしてみれば、その顔に傷をつけて平然としていることが信じられなかった。その、無頓着さが腹立たしい。
今口を開けば罵倒の言葉が飛び出してきそうで、歯を強く噛みしめる。空気を察したのかブランディーヌは居心地が悪そうに身じろぎをした。

「…目を閉じなさい」
「はい?」
「早く」

言われた通り目を閉じたブランディーヌの前まで音もなく移動する。ガーゼに手を触れれば、体が動いた。

「絶対に目を開けてはならない。いいな」
「…はい」

痛みを感じないと様に丁寧に剥がす。ガーゼの下の傷口は、いくらピンの先が鋭利だったとはいえ、刃物とは違い歪なものだった。幸運だったのは女性の力で付けられたものと言うことか。そこまで深くはないので子供の回復力があれば、傷は残らないか、かなり薄くなるだろう。しかしそれはちゃんと治療した場合だ。消毒だけして放っておいてはしっかりと残ってしまうだろう。

「少し待っていなさい」

身を翻して、早足で私の王国へと向かった。纏わりついてくるアイシャを一撫でし、目当てのものを探す。見つけだすとそのまま踵を返した私に、後ろで不満げな鳴き声が一つ。最短距離で往復したおかげで10分程度しかかからなかった。

「ブランディーヌ」

手持無沙汰そうに天使像を見上げていたブランディーヌに声をかければ、心得ているとばかりに目を閉じた。それを確認してから近づく。

「少し冷たいが…いいね」
「はい」

手にした軟膏を指に取る。これは私が愛用している傷薬だ。幾つかの薬草を配合したもので、傷の治りが良くなる。そこらの医者が適当に出すものよりは遥かに効き目がいい。
傷口に薄く塗布すれば、沁みるのか眉を顰めた。左目の目じりの下から眼窩に沿うようにつけられた傷に知らずため息が零れる。あとほんの少しずれていたら、目が見えなくなっていただろう。他人の為にそんな危険を冒したブランディーヌの心境がよく分からない。

「痛かっただろう」
「ええ。それに顔って思ったより血が流れやすいんですね。びっくりしました」

いきなり話しかけられたからか、それともそんな言葉をかけられるとは思っていなかったのか。ピクリと肩を動かしたブランディーヌが珍しく早口になった。私もまさか自分の口からそんな、労わるような言葉が出るとは思わず、一人驚いていた。

「ねえ先生」
「なんだ」

動揺を悟られない様に、普段通りの声を出す。ブランディーヌはそんな私を知ってか知らずか一拍置いて、ゆっくりと口を開いた。

「先生はやっぱりゴーストでは、ないんですね」

息を飲んだ私に、ブランディーヌは言葉を続ける。ここの鍵を開けられたこと、ヴァイオリンを弾いたこと、そして。

「手が、温かい。体温のあるゴーストなんて、居ないでしょう?」

薬を塗るために手袋を外していた素手が、その言葉にびくりとする。未だに傷口に触れていた指が、意図せず傷を引っ掻いた。反射的にブランディーヌは目を開いて…私を見た。見てしまった!
きっと彼女はこの後目を見開き、恐怖の叫びを上げることだろう。顔の半分を覆う表情を映すことのない白い仮面に、私が怪人だと気付かぬはずがない!嫌悪の表情を浮かべ、今までの様に微笑みを浮かべるなどと言うことは金輪際なく――滑稽で醜い、命乞いをするのだ!
一瞬でそんな情景が頭をよぎる。そんなことに耐えられるはずがない!いっそこのままブランディーヌの命を絶ってしまおうか!いいや、それをするには惜しい才能だ、それに女子供に危害を加えるのは信条に反する。…ならば、このまま私の王国に連れ去ってしまおうか。あそこならば彼女は逃げることもできない。私の事が外に漏れることも、その才能も失うことはないだろう!
物騒なことを考える私に、ブランディーヌは、再度目を閉じた。健気にも死を待とうとでもいうのか!それとも見るに堪えないとでも!

「先生」

いつもと変わらぬ声音が、耳を打つ。彼女は、怯えを見せるでもなく、普段と同じように私を、呼んだ?

「もう少し丁寧に塗って下さらないと痛いですよ」

傷が開いたじゃあないですか、と口を尖らせる。確かに、彼女の傷口からは赤い血が滲んでいた。

「さ、早く塗ってください」

ブランディーヌの態度に混乱した脳みそは、私の思考とは関係なしに言われたように薬を掬う。持っていたハンカチーフで血を拭い、また塗る。微かに震える手で、ガーゼを貼りなおすと、彼女は小さくため息を吐いた。

「…目を、開けても?」

…今更隠す必要はない。いいと言えば、彼女はゆっくりと目を開いた。

「…こうして顔を合わせるのは初めてですね」
「…ああ」

ジッと私を見つめるブランディーヌの目に、いつ恐怖の色が浮かぶのか。見たくはないと思うのに目が反らせられない。もしもそれが浮かんだら、浮かんだら?私はどうするのだろうか。僅かに冷静になった私の脳裏に、いくつかの選択肢が浮かぶ。殺すことは、私には出来ない。連れ去る…やはりこれが一番有力候補だろう。しかし、どこかで期待している自分が居た。彼女は、私を恐れないのではないかと。そんなことがある筈もないと分かっているのに。だが、現に今彼女は私を恐れては、居ない――。

「お前は、私が怖くないのか…?私が誰か、分かっているのだろう?」

無様に震えそうな声を、拳を握りしめることで抑える。ブランディーヌは一度瞬きをして。

「…そうじゃないかなあ、と思っていたので」

ふわりと、私に笑みを向けた――。

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