オペラ座 | ナノ
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あの晩から始まった稽古は厳しいものだった。求められるものは私の今の技術を考慮してくれている。つまり基礎である部分を叩き込まれているのだが、これが難しいのだ。もちろん基礎が一番退屈でおざなりになりやすいが、最も重要であることは理解している。だからレッスン内容自体はなんら苦ではない。しかし…。

「ブランディーヌ、首の力をもう少し抜きなさい。ネックを親指で支えるんだ」

言われた通りにすると、ヴァイオリンが不安定になる。慌てて首に力を入れれば音が揺れた。
硬質な音がして弓を下ろす。どちらともなくため息を漏らす音がした。そう、こんなことの繰り返しなのだ。
彼が求める目標ラインは高いのは薄々感付いている。それ故に厳しくなるのも、苦労するのも構わない。しかし、こうした細かい姿勢や、力加減となると…。

(見本があれば分かりやすいんだけどな)

実際に彼がどんな体勢を求めているのか、どう弾いているのか。こう持つのだと実際に手を加えてくれれば、理解は格段に進むだろう。だが、姿を見せるのを嫌う彼にそんなことを言っても無駄だし、言う気もなかった。

「ブランディーヌ…ヴァイオリンを顎で支える必要はないんだ。利点と言えば左手を早く動かせることだが…それ以上に不利益が多すぎる。分かるね?」
「ええ…気を付けてはいるんですが…」

今までの生活に少しばかり後悔が募る。父がヴァイオリンを教えてくれた頃はまだ幼く、楽しんで弾くことが一番だと細かい所まではまだ教えられなかった。そこから我流で小銭稼ぎを始めて…基礎よりも人目を引くパフォーマンスを重視したために、細かいところが杜撰になっている。
とはいえ、必要なことだと割り切っているし、今でも止めるわけにはいかないのだからどうしようもないのだが。
なんとも言えない沈黙が礼拝堂に横たわる。再度ため息が聞こえた。

「…では、もう一度だ」
「はい」

言われたことに気を付けて構える。…ネックを親指で支えて、顎は安定させる手伝い。微調整を繰り返してなんとか形にする。が、弾いている内にやはり力が入ってしまったようでまた止められた。…癖って怖い。

「…弾き始めはいいが、それ以降はまるでダメだ」
「はい」
「今日はここまでにする。正しい姿勢を意識して構える練習をしなさい」
「音は出さずに構えるだけですか」
「ああ。まずはそれだけでも支えられるという意識を付けろ」
「分かりました」

ヴァイオリンを片付けながらため息を飲み込む。雑用に稽古、小銭稼ぎ…どう練習の時間を見繕うか。夜出歩かなければいいのだろうが、それでは今度のクリスティーヌの誕生日に碌なものを贈れない。

「ブランディーヌ」
「はい?」
「…いや、なんでもない。気を付けて帰りなさい」
「…分かりました。おやすみなさい先生」
「ああ、お休み」



今度の舞台に使う大道具の確認をしながら、遂に来週に迫ったクリスティーヌの誕生日に頭を痛める。結局夜の仕事時間を減らして練習に費やしたものだから目標金額には届かなかった。時期的に散財が多く、客からの実入りが思ったより少なかったというのも痛い。

「何ですって!」

休演日の緩やかな空気を切り裂くような金切声。それにまた違う声がヒステリックに叫んだ。何事かと楽屋の方に走ると、人だかりがある。それに潜り込めば前の方にクリスティーヌとメグが居た。

「どうしたんだい?」
「ああ、ブランディーヌ!それがね…」

どこか目を輝かせているメグの話からすると、どうやらパトロンの取り合いらしい。スリルを求めて他の女に手を出したら火傷した、ということだ。美しい顔を歪めて罵り合う二人の間に顔を青くした男が一人。自分の落とし前も付けれない男のどこがいいのやら。
こうした修羅場はオペラ座には付き物で、周りの人間は止めることもなくこの見世物を楽しんでいた。それも、片方が髪に差していた先が鋭利なピンを握りしめるまでだったが。

「あんたなんか…!」

手を振り上げても男は動きもせずに固まっている。私は舌打ちを一つして間に飛び込んだ。驚いた女性は動きを止めようとしたが、勢いが付き過ぎていた。引こうとした手は、残念なことに狙いより低い位置にある私の顔に向かって。痛い様な熱い様な感覚が目の下から頬に走る。

「ブランディーヌ!」

メグとクリスティーヌの悲鳴、息を飲む人々、顔を青くした目の前の女性。

「…落ち着いて、ください」

ジンジンと焼け付く様に痛む傷に左目が開けられない。僅かに見える視界は、歪んでいるがこれは目を眇めているからだろう。眼球に影響はないようだ。

「…ムッシュ、彼女を控室へ」

原因の男に声をかければ、後ろの女性が何か言おうとしたが、振り返れば口を噤んだ。

「彼女は動転しています。申し訳ありませんが、経緯を訪ねても?」

怪我をした以上関係者だ、と言外に滲ませる。このまま一緒に居てはまたいつ喧嘩が始まってもおかしくはない。さっさと離そう。頷いた女性が歩き出し、その後に続く。心配そうな顔の二人に小さく手を振った。ああ、頬を伝う血がうっとおしい。

「巻き込んでしまったわね…ごめんなさい」
「いえ、あなたが怪我をしなくて良かった」

興奮が冷めたのか殊勝な顔をする女性、エリザに微笑みかける。エリザはここ最近舞台に立つようになったバレリーナだ。中々人気もある。そんな彼女が怪我をしたとなればあの醜聞が表沙汰になっただろう。いくらスキャンダルも売りの一つとはいえ、そこまでいったらいい笑いものだ。

「で、今回は一体何があったんですか」
「彼…ロイクがジスレーヌに手を出したのよ!あの男!愛してるって言ったくせに!」

顔を赤くするエリザの姿に苦笑したくなる。エリザには確か早くも、もう一人パトロンが居たはずだ。それなりに遊び歩いて居る男でエリザが他と恋に落ちようがあまり気にしてはいないようだが…、自分も同じようなものだとは気づかないのか。大体このオペラ座でそんな真剣な恋愛を求めること自体難しいのは百も承知だろうに。

「エリザ…お辛かったでしょう」
「…ええ、身を引き裂かれるようよ…!」

心中とは裏腹に慰めの言葉をかける。また混乱されるのも女性がつらい顔をしているのも真っ平御免だ。

「でも、彼はあなたに相応しくないですよ」
「…そんな」
「あなたの身の危険だというのに、何もしないような男はあなたには相応しくない。あなたならもっと素敵な男性が見つかりますよ」

あなたが捨てられるのではなく、こちらから見切りをつけるのだ、というような論調でいかにロイク氏がエリザに似つかわしくはないかを語る。初めは渋い顔をしていたエリザも、いつかは微笑んでいた。

「…そうね、良く考えたらあんな軽薄で根性なしな男どこがいいのかしら」
「全く。あなたには相応しくない」

何度相応しくない、という言葉を使ったかなあ、と考えつつ真剣な顔で頷く。

「あなたはもっと価値がある。それに見合う相手を探すべきです」
「例えばあなたみたいな?」
「…面白い事を仰る」
「あら、本当よ?あなたみたいな勇敢な人…ブランディーヌが男の子だったら良かったのに。そうしたら大きくなるまで待ってたわ」
「それは…残念なことだ」

痛む左目で無様なウィンクをすれば、エリザは声を上げて笑った。朗らかな空気が広がった控室にノックの音が響く。返事をすればロイク氏が入ってきた。緊張したような彼はエリザが平然としていることに目を開く。

「あの…エリザ…」
「ムッシュ、女性の名をそんな簡単に呼ぶものじゃありませんわ」

愕然とするロイク氏にエリザは笑顔で別れを告げる。それに慌てて弁解を述べるのは捨てられるという恥を避ける為か、本心か。残っていたカフェオレを呷り席を立つ。人の修羅場にこれ以上巻き込まれてはたまらない。
そんな私にロイク氏は振り返って。

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