オペラ座 | ナノ
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小さく頭を下げたブランディーヌの髪がさらりと揺れる。蝋燭の光に輝くそれを視界に留めながら私は叫びたい気持ちで一杯だった。ついに私の手を彼女は取ったのだ!
吊り上がる口元を、誰が見ているというわけでもないが隠すように手で覆う。そうでもしなければ今にも笑い声が零れてしまいそうだった。

「さて、これからは先生、とお呼びすればいいですか?」

顔を上げたブランディーヌが真っ直ぐにこちらを見る。先程のヴァイオリンの音の出どころから辺りを付けたのだろうが、まるで居場所を見破られているかのような居心地の悪さを感じた。しかし、これにも慣れていかねばならないだろう。これからはこの閉じられた部屋の中で接していくのだから。

「…お気に召しませんでしたか?」
「ああ、いや…それでいい」
「分かりました先生」

ふっと微笑みながら頷くブランディーヌに何とも言えない気持ちになった。こうして師弟関係になった以上仕方のない事だが、彼女がもう私をエリックと呼ぶことはないのだろう。彼女が私をそう呼んだのは名乗った時のたった一度だけだ。しかし、母すらも呼ぶことさえ嫌がったあの名を!忘れようとも忘れきれなかった私の名を彼女は微笑みながら厭うことなく呼んでくれたのだ!私の姿を見ていないからこその言動ではあった。しかし、あのこそばゆくも心地よい感覚を、もう二度と感じることはできないのだと思うと、少しばかり侘しいような気持になる。
…怪人が聞いて呆れる。久方ぶり…いや、初めてと言ってもいい私に嫌悪を見せない相手に少々心を許しかけていたようだ。
例えブランディーヌが子供にしては聡く、稀な才能を持っているからと言っても、きっと一皮剥けばそこらに居るお喋りな子ネズミと同じなのだ。油断すれば足元を掬われかねない。

「ブランディーヌ」
「はい」
「このレッスンの事は誰にも言ってはならない。いいね?」

念を押すように低い声を出せば、ブランディーヌは少し目を見開いた後、肩を震わせた。

「勿論。言われずとも」
「その言葉忘れんぞ」
「ええ。…第一、ゴーストに稽古をつけてもらってるなんて言ったら夢でも見てると思われるのがオチでしょうとも!」

耐えきれない、とばかりに笑い出したブランディーヌに肩の力が抜ける。…確かにこのオペラ座には私以外にも様々な噂があった。しかし、実際に大多数から信じられているのは(私にとっては正当な権利だと思っているが)ボックス席をキープしたり、高額の給料を毟り取っていると噂される私ぐらいなものだ。
そしてその恐るべき怪人が、こんな小娘に稽古をつける、などとは誰も思わないかもしれない。ブランディーヌの言うとおり一笑に付されるのが目に見える。

「さて、これから直ぐに稽古を始めますか?」
「いや、今日はもう遅い。…今日はもう休みなさい」

私の言葉にやっと止まった肩をもう一度震わせながら彼女は頷いた。

「…何がそんなにおかしいのかね?」
「いえ、まさかゴーストに体調を気遣われるとは思っていなかったもので!」

笑い出すのを懸命に堪えようとしているのか、ブランディーヌは引き攣った表情であさっての方向を見る。少々失礼な物言いにムッとするが、どこか芝居がかった大げさな挙動に力が抜ける。…案外舞台に立たせてもそれなりのものになるかもしれぬ。道化や、明るいズボン役などをやらせたらはまり役だろう。

「では、失礼します」
「ああ、ではまた次の稽古で」
「ええ、楽しみにしています」

踵を返して歩いていく後姿を眺めながら、こんな平穏な別れをしたのは初めてではないかとぼんやりと思った。人は皆、私には二度と会いたくないという様な素振りで去って行くものだったから。…もちろん私とてそのような輩にもう一度会いたいとは思わなかったが。

「また、か…」

名前といい、今の挨拶といい…ブランディーヌに関わると思いもかけない初めてが多くありそうだ。…それは、人と関わらず闇の中で生きてきた私にとって酷く煩わしく、居心地の悪いものな気がする。だが、それを甘受しようとしている自分が居るのも誤魔化しようのない事実であって。
手を強く握ると皮の擦れる音がした。耳障りなそれに目を閉じる。瞼の裏に浮かんだのは、微笑みながら私の名を呼んだブランディーヌの姿だった。


闇に差す一筋の光
それは未だ弱弱しくも

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