オペラ座 | ナノ
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仕事を終えのんびりとしているとクリスティーヌとメグが帰ってきた。

「聞いてブランディーヌ!とっても楽しかったのよ!」
「あの美味しいお菓子、あなたにも食べさせてあげたかったわ!」

両側から今日の出来事を一生懸命伝えようとする二人につい笑みが込み上げてくる。全くなんと愛らしい事か!どうやらクリスティーヌも存分に楽しめたようでホッとする。

「この様子だと明日からの稽古も頑張れそうだね?」

私の言葉に二人が顔を顰める。休日の次の日はどうも皆遊び疲れて精彩を欠くとマダムがぼやいていたが、この様子ではこの二人もそうなのだな、と苦笑してしまう。

「さあ、明日に疲れが残らないようご飯を食べてゆっくり休みなさい」
「はーい」
「今日はブランディーヌも一緒に食べられるの?」
「ああ、仕事を頑張ったからね」

食堂は金がかからない代わりに味は微妙だと評判だが…まあ、外食ばかりでは金がかかるしそこまでグルメではない。可愛いレディに挟まれて食べれば美味しく頂けるだろう。そんなことを考えながら二人に腕を引っ張られつつ食堂に向かった。

夕食をとり終わると二人を部屋まで送って別れる。普段なら消灯間際まで私の部屋に居たがるクリスティーヌだが今日は流石に疲れたらしい。眠たげな顔で部屋に入ったのを見届けて私は部屋に戻ってヴァイオリンを持ち地下へと向かった。

いつもなら鍵がかかっているはずの礼拝堂はすんなりと開いた。あのゴースト…エリックの言葉は本当だったらしい。まだ彼は来ていないのか物音一つしない礼拝堂に入り椅子に腰かける。
…流石に昼は驚いた。知らぬ通路を見つけたかと思えば噂のゴーストに声を掛けられて。警戒心丸出しで失礼なことを言ってしまったが…あれは仕方のない反応だと思って頂きたい。なんせ私の事だけではなくクリスティーヌの事まで知っていたのだから。あれがなければ無視を決め込めたのに。

さて、ではその物知りなエリックとはいったい何者か。本物のゴーストということはないだろう。実体がないのなら鍵が開けられるはずもないし。
このオペラ座にはいくつか物騒な噂がある。それは夢叶わずして生を終えた若き女性のゴーストだったり、プリマドンナに恋をして敗れた男のゴーストだったり。…こうして思い返すとゴースト多いなオペラ座。まあ、とにかくそんな数々の噂でも一番人々の口に上がるのがオペラ座の怪人、だろう。このオペラ座の事を事細かに知っていて、場合によっては災いを与えるとかなんとか。
そんな彼をゴーストと言うものもいれば、きっと生きている人間だと言う者もいる。どちらかは誰も確かめられていないので、想像の域を出ていないが。ちなみに私は人間派だ。何故なら彼は支配人に破格の給料を貰ったり、5番ボックスをリザーブしているらしい。実体のないゴーストならとりあえず前者は確実に必要がないだろう。
…この怪人というのが、エリックではないだろうか。オペラ座の事を把握しているが姿は見せずどこに居るのか分からない。噂通りと言えば通りだろう。
とまあ、ここまで考えてだからどうした、という気分になってくる。彼は自分が怪人とは言わなかった。ゴーストと名乗ってきたくらいだ、怪人と知られたくないのかもしれない。だとしたら、そこに突っ込むのは如何なものか。大体怪人が噂通りの人物だとしたら、彼が望む通りゴーストと信じていた方が得策だろう。機嫌損ねて不幸にでも見舞われたら困る。
…とりあえず、彼がゴーストとして振る舞う以上私もそう対応しよう。そう決めて一人頷いていると、いきなり声がした。

「ブランディーヌ」

急に名前が呼ばれて肩がびくつく。礼拝堂は声が響く。冷静に聞いてみれば低く響く美しい声をしているエリックに名前を呼ばれて何とも言えない気分になった。

「どうした変な顔をして」
「変な顔とは失礼な」

誤魔化すように文句を言えば潜めた笑い声がする。…うむ、やはりいい声だ。

「さて、今日はまず私の腕を披露しようか」
「へ?」

思いもよらぬ言葉に驚いていると、ヴァイオリンの音が聞こえてきた。初めは呆気にとられていたが、その上手さに思わず目を閉じて聞き入る。
流れるように戸惑うことなく奏でられる音は、どこか哀愁を感じさせる。父の姿が瞼の裏に浮かんだ。いつも優しく微笑みながらヴァイオリンを弾いていた父。その大きな手が優しく弓を操るのを思い出す。滑らかな動きに一切の迷いはなく、体に溶け込む様なそんな優しさがあった。それに似ているがこの人の音は父とは違う。優しさがないわけではない、ただそれは私ではなく全て音楽へと向けられていた。これは何度か耳にした仕事中の父の音に近いかもしれない。
普段の柔和な顔から舞台に出た時の父の変化が好きだった。勿論私たちや村の人々の前での楽しげな音も好ましかった。しかし、あの周りを忘れ音に没頭するあの姿は、私の憧れだった。
一つ一つ音を拾い上げ、紡ぐ。その流れは時に心を落ち着かせ、掻き乱した。父は、私の目標だったのだ。

「Bravo」

最後の一音が響き、空中に消えていく。その余韻に浸りながら、目を開いた。どこに立っているか分からない演奏者に、感嘆の言葉と拍手を送る。本当に、感動的な演奏だった。オペラ座のオーケストラの中で彼に敵う者は居ないだろう。

「まさか…こんな上手いゴーストが居るとは。驚きですね」
「指導を受ける気になったかな?」

笑いを含んだ声音に少々反骨心が湧く。しかし、彼の演奏にはその気持ちを即座に打ち砕くだけのものがあったのも、確かだ。
…私がここでヴァイオリンを学んだとして。オケに入れるとは思えない。女が入るのを認められるはずもないのだ。どこかの貴族に取り入ってサロンで演奏を開く…しかしこれはクリスティーヌと離れ離れになってしまう。彼女に何かあったらどうするのか。これも却下。つまり、私にはヴァイオリンを学ぶメリットが少ない。強いて言えば小銭稼ぎが多少捗る程度。ならば、指導を受けることに何の意味があるのか。
そう、分かっているのに。最近は少しずつ割り切れていたのに。彼の、エリックの演奏が私の欲望を思い出させて。…父の様に、弾きたかった。誰もが息を飲む音を奏でたい。音楽に没頭したい、自分の世界を築きたい。しかし、それには技術が必要なのだ。そうそして、それを教えてくれる先生が。

「…よろしくお願いします、先生」

闇が、笑った気がした。

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