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何とも言えない沈黙の後、ブランディーヌはもう一度頭を下げた。
「では御機嫌よう」
「待て」
「申し訳ありませんが…仕事がありますので」
私の静止の声に肩を竦めるとブランディーヌはすたすたと歩きだした。飄々とした態度に苛立ちがぶり返すのを感じながら付いていく。
「君はヴァイオリンが弾けるらしいな」
「ええまあ。よくご存じで」
「このオペラ座に私の知らぬことなどない」
「はあ…では一つ質問をいいでしょうか」
「なにかね」
大方先程の通路のことか、それともオペラ座の怪人…私についてか。なんと躱すか考えつつ促せば、ブランディーヌの足が止まった。
「地下の礼拝堂ですが…あそこって抜け道とかありますかね」
思わぬ言葉に声を失う。地下の礼拝堂?一体あそこになんの用事があるというのだ。何も言わない私にブランディーヌは困ったように笑った。
「実はですね妹…クリスティーヌがあそこにある天使像にお祈りがしたいって言うんですが。ほら、昼間は稽古で忙しいですしお祈りの時間は短いし…夜は鍵がかけられているのでどうしたものかと」
「ならば…私が鍵を開けてあげよう」
「え?」
「その代り一つ提案がある」
こちらへ振り返ったブランディーヌが少し考えてから口を開く。
「何でしょう?」
「君に、ヴァイオリンの稽古を付けさせてはくれないか」
目を丸くして驚く姿は年相応の物で微笑ましい。子供は好まない性質だったが、ここまで大人びていると子供らしさが可愛らしいと感じるようだ。
「それはまた…一体どうして」
「君の演奏を聞いてね。是非もっと上手くなった君の曲が聴きたいんだ」
「…でもどこでやるんですか?時間は?」
「ではそれも礼拝堂で。時間は…妹さんが帰った後でどうだ?」
ブランディーヌが少しばかり渋い顔になった。よく考えれば彼女は小銭稼ぎに精を出しているのだ。その時間が惜しい、ということだろう。
「…ではとりあえず、稽古を一度付けてもらってからにしましょう」
「ほう?」
「どんな稽古か分かりませんから。…なんせゴーストに稽古を受けるのは初めてなもので」
にやりとこまっしゃくれた笑いを浮かべるブランディーヌに見えないと知りながらも私も同じ類の笑みを模った。先程と違い怒りが湧かないのは、彼女が稽古を受ける意思を見せたからか、それとも僅かに見えた子供らしさに毒気が抜かれたのか。それは私にもわからなかった。
「では、今日の夜に」
「ええ、楽しみにしてますよ…エリック」
彼女はそう言って、初めて私の名を呼んだ。
それは、不思議な響きを持っておまけ
ブケーに言いつけられたところまでやってきたブランディーヌは持っていた道具箱から金槌を取り出して大道具のケアを始める。その手つきは慣れたものだったが、いつ指を打ちつけてしまうのか気が気でない。
「気を付けろ、指を怪我でもしたら大変だ」
「はあ」
「ほら、よそ見をするな!そこに棘が出ているぞ!」
「ああ、どうも」
「そんな釘箱に手荒に手を突っ込むな!」
「…すいません、気が散って余計危ないので黙っててくれませんか」
「なっ!」
こちらは心配してやっているというのに!何か言ってやろうかとも思ったが、確かに集中を乱して怪我をされては困る。結局黙々と作業を続けるブランディーヌの後姿を物陰から静かに見守るのであった。
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