何処までも先の見えない線路の上をただただ君と歩いて居たかった、あの夏の日。
「暑いなあ」
そんな独り言も耳を劈くような蝉の鳴き声にかき消された。久々に訪れた杜王町は記憶の中よりも高いビルが増えた気がするが、それでも東京に比べれば緑が多い。頭痛がするような騒がしさの中、目的地へと足を進める。
「名前です」
軽快なチャイムに女性の声が続く。名前を名乗れば入って!と明るい声で言われた。
「お邪魔します」
玄関を開ければ満面の笑みで朋子さんが迎えてくれた。
「久しぶりね名前ちゃん!迷子にはならなかった?」
「少し迷っちゃいました」
苦笑しながらそう言えば、朋子さんはここらへんも変わったものね、とくすくすと笑った。持っていたスイカを差し出せば重かったでしょう、と労いのお言葉を頂く。
「まあとにかく上がってちょうだいよ」
「ありがとうございます」
サンダルのボタンを外そうと下を向いて、大きな靴が乱雑に置かれているのに気づく。私の視線に気づいた朋子さんが呆れた様に声を上げた。
「あんの馬鹿!ちゃんと端に脱げっていつも言ってんのに!」
文句を言いつつもちゃんと揃えてあげる朋子さんに母の姿が重なる。お母さんってどこも似たようなことをしている。
「仗助君のですか?」
「そうよー。全く図体ばっかりデカくなっちゃって!」
「悪かったな図体ばっかで」
「あ…」
階段から青年が唇を尖らせながら顔を出す。私と目が合って、何度が大きな瞳を瞬かせた。
「…名前、姉ちゃん?」
「久しぶり、仗助君」
「名前姉ちゃんくんなら先に言っとけよなー!」
「あんたがいっつも遊び歩いてるからいけないんでしょー」
差し出された麦茶を受け取ると仗助君がにこりと笑う。体は随分と大きくなったけれど、この人懐っこい笑顔は変わってないなあ、となんだかホッとした。
「で、急にどうしたんすか」
「名前ちゃんこっちの大学受けるんだってさ」
「マジっすか?」
仗助君が少し驚いた顔になる。こくりと頷けば気の抜けたような声を出した。
「東京に出る奴は多いけど…戻ってくるって珍しいっすね」
「そうだねえ」
中学に上がる春。私たち一家はここ杜王町から東京へと引っ越した。それから六年が経ち、私はここへ帰って来ることにしたのだった。学校の友人は皆東京の大学に進む予定だったし、親もそう思っていたようでかなり反対はされた。しかし、行きたい大学の候補も決めていたし、とりあえず受けるだけは受けさせてもらう予定である。今日はその大学の下見だ。
「それにしても…急なお願いだったのにありがとうございます」
「いいのよ!私とこいつだけじゃ部屋余ってるんだから!」
そう言って笑う朋子さんに本当にありがたいな、と思う。東方家はこちらに住んでいた時のお隣さんで、家族ぐるみのお付き合いだった。二つ下の仗助君とはよく泥まみれになって遊んだものである。
引っ越した後も母親同士の繋がりは有って、年賀状のやり取りやたまに電話などはしていたようだが…こうして下見の為に泊めてもらえるとは。
「大学は今日見に行くの?」
「いえ、オープンキャンパスは明日なので。ただ道順だけは確認しておこうかなと」
迷子になったら困りますから、と笑えば朋子さんもけらけらと笑った。
「じゃあ仗助。あんた道案内してあげなさいよ。どうせ今日は暇なんでしょ」
「そんな、大丈夫ですよ」
「いいのいいの!昔名前ちゃんに沢山面倒掛けたんだから少しは恩返ししなさい!」
仗助君の方を見れば、仕方ないというように苦笑しながら肩を竦めていた。
「ごめんね付き合わせて」
「別にいいっすよ〜」
一歩前を歩きながらこの六年で新しくできたお店なんかを説明する仗助君の背中を眺める。大きく、なった。それも当たり前だ、もう六年経っているのだから。
「なんでこっち戻ってこようと思ったんすか?」
何気なく仗助君が私に問いかける。何の意図もないであろうその質問に、一瞬息が詰まった。
「…うーん、こっちの方が性に合ってるからかな」
「そんなもんすか」
「そんなもんすねえ」
真似しないでくださいよ、と拗ねる仗助君に笑ってしまう。
…そう、性に合わなかった。着飾った学友も、緑の香りがしない空気も。ぴりぴりとした歩調の合わない人々の中に入って、いつも息苦しかった。
蝉の声が、騒がしい。前を歩く仗助君の背中に、あの日の光景が重なる。
「ねえ仗助君。あの線路ってどうなったのかな」
廃線になった線路の上を、ただただ歩き続けたあの夏の日。前を歩く仗助君が転ばない様に気を配りながら、下らないことで笑い合ったあの日。
「ああ…撤去されちまいましたよ」
「…そっかあ」
やはり、時の流れとは残酷だ。ここにも、あの輝かしい、愛おしい日々は残っていないのかもしれない。
少しの間無言で歩き続けて、仗助君がピタリと止まって振り返る。
「名前姉ちゃん」
あの頃と変わらない呼び方で、変わらない大きな瞳で、仗助君が笑う。
「なあに」
「確かもうちょい山の方まで行くとあの線路残ってたと思うんすよ」
「…そうなんだ」
「今度、行きましょう」
「行きたいけど…明日帰っちゃうしなあ」
色よい返事をしなかったせいか、仗助君は眉をしかめた。言葉を間違えてしまったかもしれない。困り始めた私の手を仗助君が取る。昔とは違う大きな手で。
「来年の夏にはこっちに居るんだから時間なんて沢山あんじゃないっすかー」
「…そうだね」
耳が痛くなるような、蝉の声。前ではなく、隣を歩くようになった少年。むせ返るような緑の中、私たちはただただ歩き続ける。
「そうなると、いいなあ」
「なってくれないと困りますよー。…俺、名前姉ちゃんにまた会えて嬉しかったんすから」
笑う彼の背中で、太陽がキラリと輝く。
愛しのノスタルジー
胸に詰まっていた何かが溶けていく