※「知らない人の顔」の続き
深い黒の着物が目の端に映り、慌てて傍の部屋に逃げ込んだ。心臓が胸の内で暴れ回る。小さく息をして、顔を伏せた。少し泣きそうだ。
切なげな顔をして、着物の合わせに手をやりながら「行け」と一言。なんとか理性を取り戻したらしい斎藤さんは必死な声で呟いた。何か考える間もなく、よたよたと部屋を出てそれきり。あの晩以来斎藤さんと話していないし顔も合わせないようにしている。避けているといえばそれで済むが、どうもあちらも避けているように感じた。互いに気まずく思っている。
「なんでこうなっちゃったかなあ……」
最後に一息ついて、部屋を出た。絡まった糸は自分からほどく気にはなれない。
○
真夜中の見回り。どこかで誰かが咳き込んでいる。沖田さんかと見当をつけ、薬を持って誰かが咳をしている部屋へ飛び込んだ。
「大丈夫ですか、沖田さ……!」
違う。
藍の髪が畳に散らばっていた。
「……斎藤さん?」
以前の経験も踏まえて、入り口まで下がった。数本の徳利が月光に照らされている。……また、潰れるまで飲んだのか。
「寝てるんですか?」
返事は無い。そうっと近寄って、倒れているのが斎藤さんだと確認した。襟巻きが首に巻きついて苦しそう。少しだけ緩めて、それから、注意深く、いつでも下がれるようにしてから顔を覗き込んだ。
「……」
綺麗な顔。怖いくらいに整っている。
土方さんのような儚さがあるわけでも沖田さんの明朗とした光があるのでもない。けれど、静かな美しさがそこにあった。
めったに表情の浮かばない口元に指を置く。そういえば、この人の笑った顔を見たことがない。
(絶対、かっこいい)
そっと、指を離した。
このままにしておくのも良くないだろう。布団をしいて、そこで寝るように言えばいい。
思って、襖に手をかけたその時だった。
「悠」
掠れ声が自分の名を呼んだ。反射的に飛び退いて、だが身体は追いつかず尻餅をつく。
「さ、いとうさん?」
伏せった身体は微動だにしない。恐る恐る声をかけるも、相手の動きはない。
「悠」
「はっ、はい!」
「……悠」
「は、い?」
「……」
僅かに身動きしたため晒された瞼は、しっかりと閉じられていた。なあんだ寝言か、と一息つくも、寝言で自分の名前を呼んだ彼の夢を想像し、何故か顔が熱くなる。私の夢を見ているのか、どうなのか。……早く布団をしいてしまおう。
「よい、っしょ」
部屋の真ん中に寝具をおいて、一番の厄介を見遣った。どうやって動かそうか。声をかけるのが一番良いだろうけど、この間みたいなことが……いや、思い出すのはやめよう。
「……失礼しますよー」
思考の末、自力で動かすことにした。起こさないよう、ゆっくりと肩を掴み、持ち上げる。着物を畳で擦らないよう出来る限り上へ上げたが、何より男と女の体格差がある。あと一息といった時に、私は肩を持ったままよろめいて、布団の上に崩れ落ちた。幸い斎藤さんも布団の上に倒れた。たぶん怪我はない。一応声をかけたが、目を覚ましてもいなかった。
「えっと……それじゃあ、これで。おやすみなさい」
掛け布団をひっぱって、泥酔している斎藤さんにそっとかける。黙って立ち去るのもなんだし、と思い控えめに挨拶をした。
「女子が男と共に寝具の上とは、あまり感心出来ないな」
自分の手の上に一回り大きいそれが重なり、そのまま強引に引っ張られる。再び倒れ込んだ布団の上には、無表情の斎藤さんもいた。いつの間に起きたのだろう。
「……っ、」
端整な顔が近づいてきて、思わず目を瞑った。首筋に痛みを感じて、状況を知ろうと薄く目を開く。
「……!」
濡れ羽色の髪が、肩口にある。濡れたなにかが鎖骨をちろりと撫で、身体が跳ねた。
「斎藤さ……」
「静かにしていろ」
厳しい声が降ってきて、恐怖で瞑目した。覆い被さる影は、自分がよく知る彼のものとは全く性質が違う。
唇に柔らかなものが押し付けられ、それでも目は開けず数秒。数分。
「……斎藤さん?」
耳元で、安らかな寝息が彼の人の眠りを告げた。
「寝ちゃうって……それはないでしょう」
ため息をついて、四肢の力を抜いた。もういいや、此処で寝てしまおう。
***
続き書くかもしれません