※クベリさんへ捧げ物。BLですのでご注意を。
人魚姫パロディです



 荒波が船の腹に体当たりを繰り返す。この船は国内でも上等な部類に入るけれど、流石に駄目かもしれない。大粒の雨が頬を弾き、濡れた髪は額に張り付いていた。立っている船員は殆どいない。僕でさえ舵を支えにしてやっと転がらずに済んでいるのだ、船旅の経験なんて無いに等しい彼らがこの嵐を乗り切れる筈が無い。

「っ、う」

 一際大きい波が船体を直撃し、僕はバランスを崩して倒れこんだ。大きく揺れる甲板の上で咄嗟に受身の態勢を取る。大自然の前ではそれだけしか出来なかった。遠くで誰かが叫んでいる。応えるように、僕も大声で返事を返した。口内に雨粒が落ちてきて苦しい。それでも叫んだ。叫び続けた。途中で言葉にならなくなって、獣のように吼えていた。

「――帝人!」

 切ないほど必死に、喉が切れそうな程僕を呼ぶその人。聞いたことの無い声だ。でも、とても心地よい声音――。
 場に合わず恍惚の表情をした僕の視界は、行き成り蒼に染まった。海に投げ出されたのだ。息が出来ない。助けて、誰か、誰か、誰か!
 不意に耳元で誰かが囁いた。柔らかい音、美しい声域。喉がすっと通って、薄い酸素が肺を満たす。
 彷徨わせた両手を暖かい掌が包み込む。その人が誰か確認する前に、意識は深層へ沈んでしまった。





「――……♪」

 歌が聴こえる。海中の夢々しい世界で聞いた音が、繋がり合ってメロディーになっている。柔らかくて、心の底にストンと落ちるような、深く優しい声。艶やかな髪の麗人を思い、思わず微笑を浮かべた。塩の香りが鼻腔を掠め、誘われるように目を開ける。

「……!」

 まず、煌めく金糸が目に入った。次に、つるりと滑らかな白い肌。逞しい腕。程よく割れた腹筋。……腹筋?

「! 起きたか」

 紛れも無い、安定した低音。喉は一部分だけ突き出ており、男のものだと分かった。鍛え上げられた身体に眩暈を覚える。見惚れたんじゃない、衝撃を受けたのだ。脳内で作り上げられた理想が音を立てて崩れ落ちた。

「お、男……」
「大丈夫か? 海水は飲んでねぇみたいだが……っと、あぶね」

 男が身を乗り出してきたので、慌てて後ずさりをした。が、波に揉まれ疲労した体は思うように機能せず、肘が揺れて地面に頭を打ち付けそうになる。いっそ後頭部強打で記憶を失くしたかったが、男の硬く大きい手がそれをさせなかった。どう考えても相手が男だという事実が帝人を混乱させる。魅惑の声の持ち主が同性。帝人王子の初恋は無残に砕け散った。
 男に支えられ体を起こした瞬間、更なる驚愕が訪れる。

「え、足……?」

 しなやかな身体を辿っていくと、本来足があるべき場所に魚類の尾ひれが生えていた。思考回路は完全に停止。ただ、鱗の美しさだけが脳裏に焼きつく。
 無言で男を見上げた。戸惑いの色が隠せない。よほど不安げな表情だったのか、男は悲しげに笑って僕の頭をくしゃりと撫でた。手はすぐに離される。笑みを浮かべたまま目立った傷がないことを確認し、最後に風に飛ばされそうな声で名を告げた。

「俺の名前は静雄。――人魚、だ」

 何か言う間もなく、男……静雄さんは海に飛び込んでしまった。両手を包むものが無くなったことに気づいて、そういえば助けてくれたのは彼だと思い返す。……お礼も言えなかった。またいつか会えるだろうか。
 失恋したというのに案外切り替えの早い自分に驚きつつ、少しだけ後悔した。今度会ったときは、傷つけたことを謝ろう。そして、助けてくれたことを感謝しなければ。

 後ろから側近の声がする。

「帝人ー! 無事だったー?」

 彼と違って品も何も無いその声に、帝人は思わず側近――正臣を怒鳴りつけた。

「√3点!!」





 それから数ヵ月後、ボロボロの布切れを身に纏って現れた静雄さんは、声こそ失っていたが姿形は完全な人間となっていた。あの日見惚れた鱗の耀きは健康的な二本の足へ変わった。疑問に思うことはたくさんあったが、静雄さんの顔は終始曇り気味だったので聞かないでおいた。
 彼の拙いジェスチャーで住む家が無いと知り、それならと城に招待したのが三日前。――そして、彼がしたことの重さを知ったのが、今。

「よりによって、折原臨也に……」
「あれ、俺の名前知ってるの? 陸の王子にまで広まってるなんて流石に把握してなかったよ」

 くす、と笑った線の細い男。先程まであの腕が自分を包んでいたかと思うと鳥肌が立つ。声だけが静雄さんというのが余計おぞましい。
 カモメの総攻撃(糞や新鮮な魚の落下)をものともせず微笑み続ける深海の魔王は、静雄さんの契約相手だった。
 折原臨也に声を渡し、代わりに人間の足を手に入れる。三日間で僕と静雄さんが恋に落ち、キ、キスをすれば、声は元通り、足はそのまま。単純明快な契約内容に騙された静雄さん。なんて馬鹿で真っ直ぐなんだろう。……魔王が簡単な相手でないことぐらい、分かってたはずなのに。
 魔王が微笑む。その頬にべちゃりと鮮魚が張り付いたが、やはり笑顔は崩れない。

「ほんとに君が好きなんだねぇ、シズちゃんは」

 魔王の胸元のペンダントが、後ろから現れた人物によって握り潰された。

「帝人に手ぇ出すな」
「――静雄、さん」

 初めて会ったときと変わらない、低く甘やかな声。油断して涙声になった僕に優しく笑いかける。折原臨也のそれとは大違いの、砂糖で出来た柔らかい頬笑。

「アハハハハ! 余裕だね、シズちゃん。俺が魔法を解いたら立つことすら出来なくなるのを忘れた?」
「手前相手に足なんざ必要ねぇよ」

 折原臨也本来の嘲るような声が、呪文のようなものを紡いだ。瞬間、吹き飛ばされる彼。僕が怒りを叫ぶと、魔王は顔を歪めて笑った。

「人間、しかも男に恋するなんてとんだ下魚だな、平和島静雄! 幽くんが泣いてるんじゃない? ハハ、アハハッ、むぐっ」

 タイミングよく降ってきた魚に口を塞がれ、強制的に黙らされた折原臨也。ついにその双眸に灼熱の焔が宿る。

「さっきから何なのこのカモメ!? たしかに俺は悪役だけど格好つけされてくれたっていいんじゃない?!」

 声を張る魔王をよそに海に飛び込んだ静雄さん。――僕もやるべきことをしなきゃ。
 これ以上沖に流されまいと舵を取りに行く。背中に凄まじい殺気を感じたけれど、立ち止まっている暇はない。

「帝人くんも無視するし……。まあいい。どうせ二人とも俺の駒になるんだから」

 禍々しくも艶のある魔王の声が、数倍大きくなった気がして振り返る。が、そこに魔王はいなかった。

『こっちだよ、帝人王子』

 声のする方へ顔を上げる。そこには。
 ――巨大な、折原臨也が。

「ええええ!? えっ……ええ!?」
『驚いた?』

 大海の中に立つ魔王。海中の手を軽く振れば、見たことも無いような大波が押し寄せる。あの時の嵐とは比べ物にならない。当然舵は効かず、しがみつくことしか出来なかった。

「――帝人!」

 切ないほど必死に、喉が切れそうな程僕を呼ぶ。僕の好きな声。僕の好きな、……好き、な 人。
 大きな岩が臨也に向かって飛んでいく。彼はすごく力持ちだ。岩、大魚、ヒトデ、海底に沈んでいた武器の数々、それら全てが剛速球で魔王の元へ。
 しかし、巨大化した折原臨也には、まるで砂をかける程度の効果しかないようだ。剣が頭に刺さっても、少し顔を顰めるだけだった。

「いっ……まったく、こんなんで俺が倒せると思ってるの」

 光の粒が臨也の人差し指に集約し、ビリビリと空気を揺らす。向けられた先には、岩の上に座り込む静雄さん。――これから何が起こるかなんて、火を見るより明らか。

 舵を取った。幸い波は落ち着いている。ゆっくりと方向転換し、船の穂先を魔王のお尻へ向けた。伝説として王家に伝わっている折原臨也の弱み。やってみる価値はあるだろう。
 もし通用しなくても、彼の気を僕に移せるならそれでいい。静雄さんが助かるなら、それで。

「ほら、見てよ帝人くん。君の愛しい人が――っ!」

 帝人は伊達に臨海の国の王子をやっていなかった。

 穂先は見事に入った。相当しっくりいってしまった。少し申し訳ない気がするほどに。

「ッあ……ハハ、よくわかったね、俺の弱点」
「……国を纏める者が魔王の弱みを知らないでどうするんですか」

 臨也の身体が崩れていく。呼吸を整えながらそれを眺めていると、不意に後ろから抱きしめられた。熱い吐息が耳にかかる。

「守れなくて、ごめんな」

 切ない程美しい声音が、鼓膜を揺らし胸に落ちる。涙が出そうになった。

「静雄さん、」

 真上にある精悍な顔を見上げ、腕を伸ばす。指先で金糸の髪を撫でた。
 人魚のこと。契約のこと。これからのこと。どれも、今話すべきじゃないと思った。なら、何を言おう? 言葉に出来るのは胸の真ん中にある一言しかない。

「大好きです」

 静雄さんは目を見開いて、それから照れくさそうに笑った。

 始まりは嵐。僕を魅了した美しい声の持ち主は人魚で、男だった。……それでも。

「――攫っちまっても、いいか?」
「へっ?」

 静雄さんは返事を待たず走り出した。浮遊感の後、視界が蒼で埋め尽くされる。夢々しい世界の中で、人魚姫は優しく笑った。溶け出す空気と触れ合う唇に、涙と幸せが滲んでいく。

 沢山の魚と人魚達が、微笑み合う二人を囲んで祝福していた。