鼻を啜った。寒いんじゃない。少し寂しかった。

「見逃してくれてありがとうございます」

 無言で佇んでいた鬼を見上げ、精一杯の声で礼を述べる。彼は何を言わず、ゆっくりと此方へ近づいた。空気は依然として冷たいままだ。もしかしたら、殺されるのかもしれない。
 ――もう、それでもいい。
 きっと、家族や友達には二度と会えない。科学の発達した世界に飛ばされるならまだしも、こんな江戸時代が舞台の表面世界で未来へ行くための方法など知りようがない。
 絶望以外の感情は残っていなかった。せめて痛い思いはしたくないから、生に縋りついた。恐怖は欲しくない。此処で死ねたら、もう何も悲しくない。

『またね、悠』

 でも、死ぬことは許されない。根拠のない脅迫が心に根を張っていた。

「未来が見える、というのは」
「本当です。風間千景と雪村千鶴の今後、教えましょうか。羅刹が何なのかも知っています。今後の幕府と新政府軍の戦いも。どこで新選組が滅びるのかも」
「……」
「だから」

 喉がひゅうひゅうと鳴り、なかなか言葉にならない。鋭い瞳を見つめながらも、頭に浮かんでいるのは自分の未来と双子の兄だった。

『お前と俺の妹を守るために崩れていく』

「だから、私を一緒に連れて行ってくれませんか。衣食は自分でどうにかします。場所を下さい。……お願いします」

 限界まで頭を下げ、お願いします、と繰り返す。死にたいと思いながら頼み込んだ。生きたいと思いながら相手の返事を待った。殴られても構わない。蹴られても、踏まれても抵抗はしない。

「何でもするから、お願いします」

『何不自由なく生きてきたんだね』

 どうしてだろう。あんなに苦しい思いをしたのに、あんなに痛い思いをしたのに、恐怖は薄れてしまった。自分が何でも許す物語のヒロインには程遠いのは分かっている。なのに、もう薫が怖くない。
 どうでもよくなってしまったからだろうか。それとも、なんだろう。

「……私が勝手に許可することはできません。でも、貴方のその言葉が真実ならば、我々は貴方を手元に置くのが最善の手」

 守られるヒロインと、病みきったその片割れを比較してしまったからだろうか。……でもそれは前からしていた。
 堂々巡りの思考に待ったをかけ、目の前の男に意識を戻す。

「……風間の元へ行きましょう。夜明けに迎えに来ます」

 もう、よくわからない。
 曖昧に頷いて、消える影を見送った。



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