息を吐いた。初めて呼吸をしたように感じた。空気を取り込むのが難しい。
 世界は相変わらず回っている。ただ、回っているのは無機質な空間ではなく見慣れた天井だ。数人の顔が視界に映る。それも、すぐにぐにゃりと歪んだ。

「悠!」
「高橋さん!」

 誰かが私の手を握り締めた。硬い、肉刺だらけの掌。ゆるゆると目線を動かすと、心配そうに此方を見る原田さんと目が合った。きっとこの手は原田さんのものだろう。反対方向に首を動かすと、涙目の千鶴ちゃんが必死に私の名を呼んでいる。なんだか自分の名前が自分のものでないような気がしてきた。画面の向こうからの呼びかけなんて心に届く筈が無い。所詮、声優さんの才能と努力の結晶、形作られたものだ。

 悠は目の前の人々が実際に息をしていることを忘れてしまった。

「すみません、ご迷惑をおかけしたようで」

 ゆっくりと起き上がる。焦点の定まらない瞳で部屋を見回した。千鶴ちゃんと原田さん、それから平隊士が数人。水音がして振り向くと、山崎さんが手ぬぐいを絞っていた。

「寝ていろ」

 首を横に振った。途端に山崎さんの眉が釣り上がり、ぎりっと手に力が込められる。少々痛い。非難を含んで原田さんを見た。

「……私、起きます」
「重病人が何言ってんだよ。お前、さっきまで……」
「仕事はどうされたんですか。千鶴ちゃ……雪村さんも、此処にいるくらいなら縁側でのんびりしたほうが良いですよ。疲れてるでしょう? ほら、もういいですから。いいですから。いいんです。ちょっと眩暈を起こしただけですから……そうです、只の眩暈です。こんなに集まって頂けるような価値は、ありません、ありませんよ。ねえ?」

 此処にいるのが幹部だけでないことを思い出し、苗字呼びに切り替えた。いつもの彼女ならその意味を汲み取れただろうが、状況が状況なだけに、千鶴ちゃんは驚愕の表情をし、その後悲しそうに俯いた。ああ、違う。遠ざけたいから苗字で呼んだわけじゃ……いや。
 遠ざけなければならないじゃないか。私の身を案じて、こんなに多くの人が集まっている。遠くから足音が聞こえる。多分、この部屋にくるのだろう。駄目だ。それじゃあ南雲薫の言う通りになってしまう。近づいては駄目と、あんなに刻み付けたのに。

「兎に角今は寝てろ。熱が下がるまで、な」

 今度は原田さんが泣きそうだった。私を窘めた語尾が震えている。新選組は涙もろい人が多いらしい。
 強がったものの、やはり身体はだるかった。素直に布団へ潜り込んだその時、近づいてきていた足音がピタリと止んだ。おそらく、その人は部屋の前に立っている。中の空気を伺いながら。

「……入っても大丈夫か?」

 軽い声。藤堂平助だろう。悠は自分の存在の影響力を身に沁みて感じた。
 瞼が重い。薫のことは寝てから考えよう。今は、十分に休んでおく。考えを整理できるまで、ゆっくりと。





「悠は……」
「今寝たところだ」

 一瞬でも意識が戻ったのだと知り安心した平助は、その場にどっかりと腰を下ろした。平隊士達は空気を読んで部屋を出て行く。未練がましそうに悠を見ていたが。

「なんで、頼ってくれないんだろうな」

 誰も返事を返さない。千鶴の啜り泣きだけが部屋に響いていた。

「髪も、勝手に自分で切っちゃうし」

 先程少女が叫んだ言葉を反芻する。床に倒れ込み、苦しそうに息をする彼女へ手を伸ばしたが、掴むどころか引っ叩かれた。

『いやだ! 私はあいつの言いなりにはならない、ならない、ならないならない! 近づくな!』

 ヒステリックに泣き叫ぶ悠。彼女が千鶴に良く似た少女と関わりがあるのは明確になったが、拒絶された平助は呆然としてしまい、原田は喚く少女を落ち着かせるのに手一杯。千鶴と沖田は様子のおかしい悠を診てもらおうと山崎を呼びに行った。つまり、悠の"疑わしい部分"についての考察が誰も出来なかったのだ。話し合うなら、当人が寝静まった今だろう。
 此処に鬼の副長がいれば、物事は極めて効率的に進んでいったに違いない。だが、彼ほどの非情さを持ち合わせる者は生憎此処にはいなかった。誰も議論を始めようとしない。

 雪村千鶴は、悠が女であると薄々感じ取っていた。捕虜という、自分と立場を同じくする者と友達になれて、本当に嬉しかった。一度は嫌われたと思ったのに簡単に許してくれたことが、本当に嬉しかったのだ。彼女が男だろうが女だろうが関係ない。助けを求めたなら我武者羅に手を貸したのに、彼女は何も言わなかった。何もかもがショックだ。自分達の助けは要らないと、先程はっきりと知らされた。彼女は一人で頑張るつもりだ。

 私を気遣い呼び方を変えた優しさが、心臓を締めて離さなかった。



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