自分は至って健康で、気にするところは全く無かった。診断結果もその通りで、俺は満足しながら部屋を出た。 今日ばかりは床を這う蜘蛛も気にならない。普段の鍛錬を認めてもらえた気がして、どうにも誇らしくて堪らなかった。 笑みを噛み殺しながら顔を上げたその時。眩しい高揚感をあっさりと崩したのは、前方を行く小さな背中。結われた髪。 肢体を包む濃い黒が、"彼"の身を締め上げているように見えた。 「悠!」 堪らず声をかけると、その細い肩は必要以上にビクリと跳ねた。やっぱりまだ怖いのだろうか。 恐る恐る振り返った"彼"に、全力の笑みを向ける。生温い風が互いの髪を揺らした。唇が「とうどうくん」と形をつくり、その後俺の表情を見たのか、音となったのは「平助くん」だった。 「もう診察してもらったのか?」 「軽くだけど、診てもらいました」 自分より頭一つ下にある顔。悠は歳に合わず小柄だ。そして、進んで物を食べようとしないから、かなり細い。……たぶん、そういう病気だ。 「もっと食べろと叱られました」 「やっぱりなー。お前、なんでそんなに食わないんだ?」 軽く、戯れのつもりで。何の気もなしに言った一言が、悠の全身を固く締めた。 「どうして、でしょうね? 食欲がないんです、よ」 手首を掴んで自室に向かう。薄い肉の下に細い骨。男なのにここまで痩せてたら、絶対にまずい。先程の反応だって、不自然だ。不安げな声をあげる"彼"の小食の理由を今すぐ突き止めないといけない。 ◇ 「……悠は、さ」 さっきとは打って変わって沈んだ声。真剣な表情に、思わずごくりと喉を鳴らした。 「生きる目的とか……持ってないだろ?」 「え?」 「俺は、まあ、やりたいことなんて沢山ある。でも悠はそういうのが無い気がするんだ。だから、食べたいとか、そういう生きる欲求が小さいんじゃないかって思う」 誰だこの人。 藤堂平助はこんなに難しいことを言う人間だったか? 「好きな奴とかいれば、そいつの為に生きたいと思えるんじゃないかと思う。だからさ、お前……いや、誰でもいい。誰かの為に生きるようにしてみろって」 藤堂平助はこんな人間だっただろうか。 俄かの友人に深く関わる人であっただろうか。弱々しく意志薄弱な男のために何かをする人なのだろうか。気になることがあれば、無理にでも手を引く人だったろうか。元来そうだっただろうか。それとも、私の存在の所為で。 「……そうですね、わかりました。頑張ります。それでは」 なるべく落ち着きをはらって立ち上がる。藤堂平助の顔が視界に入る前に部屋を出た。 重要人物に関わらない。そう決めたのはずっと前だ。私の所為で物語が変わっていくのは絶対に避けたい。頑張って関係を薄くしようとしても、自分の弱さの所為で無意識に人を求めてしまう。(人じゃなくて、キャラクター、なのに。) 女であるというのが関わりの原因に成り得るなら、私は男として生きなければいけない。思って、実行しようとした。でも。 「おい、悠!」 『悠ちゃん』 緩んだ髪紐が、旋風に攫われ床に落ちた。随分長くなった髪が、勢いのまま広がる。傷んだそれを押さえる前に、呼びかけに振り返った。振り返ってしまった。 「……悠?」 その顔色に、彼が何を考えているのかがしっかり浮かんでいた。沢山の疑念と、僅かな期待。まさかと見開かれた瞳には、髪の長い少女が映っている。 「まだ何か、あるんですか。……平助」 本当の男友達という風に、呼び捨てた。初めて彼の名を呼んだ。目を細め、唇を上げ、思いつく限りの"男"を演じ、そして……低く、笑った。 「平助の生きる目的は、千鶴ちゃんですか」 彼の瞳から靄が消えた。その代わりに肩がふるりと震え、喉が大きく上下する。 「んなわけ、ないだろっ!」 初めて、親しみのある怒鳴り声を受けた。怒らせた。自由に不満をぶつけられるということは、距離が縮まったということ。関係が深まったということ。――私は、また間違えた。 一つの石を取り除けば、雑草の生きる場所を生む。邪魔な草を刈れば、石が現れる。私は薫の思惑を忘れたまま、自らの意思で彼らと親しくなってしまった。 |