La vie est drôle


※主人公=芽衣ちゃん

 いつもなら、朝の挨拶の後にフランスの詩人でも思いつかないような美辞麗句で私を褒めて愛を伝えてくれる。いつもなら、支度を済ませ仕事に行くまでに何度も何度も歯の浮くような台詞で私を優しく包んでくれる。少しオーバーなくらい私と離れる悲しみを表現して、惜しむように頬へ口付けをし、出掛ける。
 いつもなら。いつも、ならば。……しかし、今日は違った。「おはようございます、なまえサン」と優しく微笑む、それだけだった。身体の調子が悪いのかと心配になったけれど、彼の顔色は悪くないし朝食もきちんと食べていた。何かあったのかと思っても、彼は何かあれば必ず私に話してくれる。……じゃあ、なんで? どうして? 疑問で頭が埋め尽くされる。ハムエッグから何から全てぺろりと平らげた彼とは反対に、用意された朝食は半分も喉を通らない。それに気づいた彼は「どこか調子が悪いのですか? ……もしや風邪!? 大変です、すぐに医者を」と"いつも"の彼のように言うので、私は少しだけ安心して、風邪ではないと主張し、無理やり仕事へ行くようその背を押した。


『――娘サン!』

 どうして。廊下を掃除しながら思考を巡らせる。昨日までは普通だった。……そういえば、昨日は帰りが遅かったような気がする。
 一人でいると考えは暗い方へ向かっていくものだ。いつも明るい八雲さんがいないなら、尚更それはひどくなる。帰りが遅くなった、つまり、仕事が終わってから何かあったのだ。じゃあ何があったのか。

「他に、好きな人が……」

 ぽつりと言葉が零れた。ああ、悲しいくらいに納得がいく理由だ。いつも私を好きだと言ってくれる彼が、急に何も言わなくなる。他に好きな人が出来たから。よくある話だ。

(……もっと、私からも想いを言葉にすればよかった)

 箒を壁に立て掛けた。顔を覆う。彼が帰ってくるまでに気持ちを整えなければ。彼は優しいから、自分から別れを告げるようなことは出来ないだろう。それなら私から言わないと。言えるようにしないと。

「ただいま帰りました!」

 ガチャリとドアが開く。いつもなら、会いたかったです、から始まり上着を預かりながら五分ほど溢れんばかりの愛の言葉を聞く。しかし、いや、やはり、今日は何もなく、上着を持つ私にニコッと笑いかけ、ありがとうございます、と言うだけだった。

「……八雲さん」
「はい、何でしょう」

 彼は手にティーカップを持ち振り返る。声が震える。でも、言わなきゃ。

「私たち、別れましょう」

 パリン、と音がした。割れたティーカップが床に散らばっている。反射的に片付けようと動いた身体が、誰かに抱きすくめられる。

「なまえさん」

 彼の声は震え、少しだけ掠れていた。髪に吐息を感じる。返事をしようと吸い込んだ空気は、彼の唇に飲み込まれた。

 ――苦しい。ぎう、と音が聞こえそうな程に抱きしめられ、何度目になるか分からない口付けを受ける。生理的なものと感情的なものが混ざった涙が眦から流れて、彼の親指がそれを追いかける。

「あいしています」

 一日ぶりの愛の言葉だった。確かな温度を持ったそれは、じんわりと心に広がり、その温かさから涙が止まらなくなる。歪む視界の中彼を見上げると、彼は、八雲さんは、見たことない表情を浮かべていた。

「八雲、さん」

 私の声に、まるで子どものように首を振る。合間あいまに、嫌です、と聞こえた。

「私はなまえさんを愛しています。……失いたくない」

 腕の力が強くなる。行かないで、といわれているようだった。……そんなこと、今更言われても。八雲さんはもう私を好きではなくなってしまったんじゃないの? どうして、そんなに温かい言葉をくれるの。

「他に、好きな人が出来たんじゃ、ないんですか」

 言葉にしたら、また涙が出てきた。え、と上から聞こえる。

「どうしてまた、そんなことを。どこぞのオマワリサンに吹き込まれたのですか?」
「藤田さんは関係ないです! ……その」

 今日は、いつもと違ったから。なんだか恥ずかしくて、言葉尻が小さくなる。ちらりと彼を見上げると、よくわからないといった顔でこちらを見つめていた。

「だっ、だから、……いつもなら、こう、好きデス、とか、いっぱい言ってくれるのに、今日は無かったので……私のこと、好きじゃなくなったのかと思ったんです」

 恥ずかしさに顔から火が出そうだ。これじゃあまるで、お菓子を買ってもらえなくて拗ねている子どもみたいだ。好きって言って欲しかったというように聞こえる。……言って欲しいんじゃなくて、いつもと違ったから、不安になって……。
 心の中で必死に言い訳をしていると、頭上からクスクスと笑い声が聞こえた。それと同時に、額に何かが触れる。思わず彼を見上げると、今度は唇に彼のそれが触れた。

「……まったく、私の妻はどうしてこんなに愛らしいのでしょう」

 何か言い返す前に、また口を塞がれる。いつもより数倍優しい口付けに戸惑う。きゅ、と、やはり優しく抱きしめられ、何も言えなくなった。

「そうですね。まずは謝罪と弁解をしなくてはいけません」

 抱きしめられ、顔が見えなくても、彼が申し訳なさそうな顔をしているのが分かった。そっと彼の背中に腕を回し、言葉を待った。

「……不安にさせて、すみませんでした。私の愛は、出会ったときから変わらず貴女にだけ注がれていることを、この月のない夜に誓いましょう」

 耳に唇を寄せながら、そして、と言葉を続ける。

「今朝、貴女への想いを伝えなかったことで、私も辛い思いをしたと、先に言っておきましょう。……以前から、私が愛を言葉にする度、なまえさんは困った顔をしていることに気づきました。どのような理由であれ、貴女が表情を曇らせるようなことはあってはなりません。……情けないことですが、どうしたら良いのか、私は分からなかったのです」

 八雲さんは、自嘲するように笑いを零す。そんな、と言い掛けた私に、彼は体を離し、シー、と人差し指を唇に当てた。

「私は昨晩、奇遇にもかの有名な森鴎外という方にお会いすることができました。そこで彼に、何か悩み事があるのかと聞かれ、事の次第を話したのです。……彼は実に素晴らしい方です。すぐに、私に一つのアドヴァイスを提供しました」
「……なんだったんですか?」

 私の言葉に、くすっと笑って八雲さんは言った。

「私は少し、言葉が多すぎるのではないかとおっしゃったのです。日本の女性はシャイな方が多いですから、あんまり沢山の愛を捧げてしまっては手一杯になる、と」

 そこまで言うと、八雲さんは壁に立て掛けたままだった箒を手に取り、割れたティーカップの片づけを始めてしまった。意味を飲み込もうと考え込んでいたが、彼の「嗚呼、これはなまえさんのお気に入りでした。すみません。明日にでも……」という言葉に我に返った。

「いえ、いいんです。勘違いした私も悪かったですから。……ちりとり取ってきますね」

 悲しそうな顔をする彼に笑顔を向け、部屋を出る。自分の思い違いであったことが心から嬉しかった。
 明日からは、彼の愛にちゃんと応えよう。

「……やはり、要らぬ悩みだったようですねえ」

 一人嬉しそうに呟いたのを、新月だけが聞いていた。

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