おかえり
※主人公=芽衣ちゃん
『あんた、もとの時代に戻るのかよ?』
あの不忍池の夜以来、鏡花さんには会っていない。いや、避けているといった方が正しいか。茶屋に連れ込んでしまったのが恥ずかしいというのも無い訳じゃないけど……それより、私が数週間後に元の時代に帰ると知った時の彼の顔が、どうしようもなく居心地の悪いものだったのだ。あの悲痛な表情を、私はもうみたくない。――たぶん、嫌われてしまった。
「仕事なんざ、ちょっとくらい融通は利くけどよ……それより、お前鏡花ちゃんと何かあったのかよ」
他で倍働くからと、無理を言って別の座敷に仕事を移してもらった。失礼極まりないのは重々承知だ。……それでも、もう、彼には会いたくなかった。心配そうな音二郎さんには、ごめんなさいとしか言えなかった。どうして会いたくないのか、自分でもよく分からない。嫌われた? そんなの別にどうだっていいじゃないか。そう言い聞かせても、警告音は鳴り止まない。原因を突き止めてしまったらいけない気がした。
そのまま、置屋での生活は瞬く間に過ぎ去っていった。一度風邪を引いてしまった時に、鏡花さんがお見舞いに来てくれたらしいけど……それでも、私は彼を避け続けた。踏み込んではいけないと、心が叫び続けている。
元の時代に戻るには、残りの日数を何事もなくやり過ごさなければいけないんだ。 ……嫌われたことがショックだなんて、そんなことは考えちゃいけないんだ。
「なあ、お前ら喧嘩してんのか?……鏡花ちゃんが何したかは知らねえけどよ、そろそろ許してやってくれねぇか?」
「……違うんです。喧嘩じゃ、ない」
俯いて、歯を食いしばる。何かの結論に辿りついてしまいそうだった。
「本当に、それでいいの?」
赤い月に照らされながら、私はしっかり頷く。胸の奥から聞こえる叫びは無視した。……チャーリーさんは、一瞬だけ悲しそうな顔をした。いつもは笑みを浮かべるばかりの口が、何かを言い掛けて、やめた。
(知らない)
知らない。
(――知らない)
「知らない…」
無意識に、言葉が零れた。一緒に涙も一粒落ちた。知らない。知らない。ここを乗り切れば、もう、帰れる。家族が待ってる。友達が待ってる。
(なのに)
チャーリーさんは、確認するように首を傾げた。本当にいいの、と。いいよ、と頷いた。嫌われているから、残ったって、どうしようもない。
(なのに)
いや、それでも。私は、帰らなくちゃ。 ふうっと息を吐いて、瞑目した。黒い箱に足を踏み入れる。
――遠くから足音が聞こえる。藤田さんが来たのかもしれない。急がないと……。
パタン、と扉が閉じられた。もう終わりだ。もう、これで――
「なまえ!」
反射的に顔を上げる。間違いなく鏡花さんの声だった。 どん、と箱が揺れる。私は思わず顔を覆った。
――なんで。
「ちょっと、聞いてんの!ねえってば!」
声を出そうにも、喉が震えて上手く話せない。溢れる涙を拭いながら、精一杯の声で彼を呼ぶ。
「きょうか、さん」
「、なまえ」
なんで来たんですか。どうして今日だって分かったんですか。 聞きたいことは山程あった。何でで、どうして……私のことが、嫌いなんじゃないんですか。
どれも声にはならなくて、全て涙に代わって箱の底にしみ込んだ。
「あのさあ、本当にあんたってグズだよね」
いきなりの罵倒に目を瞬かせる。まさか私を罵りに此処まできたんだろうか。
「グズで、のろまで、肉のことしか頭に無くて、図々しくて」
「、そんな」
「それでも」
余りの言われように、声を上げる。しかし、続く言葉は鏡花さんの一言に飲み込まれた。
「それでも、僕はあんたが好きだ」
時が止まったように感じた。
ガタン、と箱が揺れて、はたと我に返った。……そんな、鏡花さんが。
「あんたが僕のことが嫌いでも、僕は勝手に、あんたのこと、好きでいるから。……それだけ言いに来た。じゃあね」
唇を噛む。嘆く暇は無かった。私も、言わなければ。
「鏡花さん!」
聞こえるだろうか。気づいてくれるだろうか。
「私も…っ!私も、鏡花さんのこと、好きです!」
ハア!?と、声が聞こえた。涙をぼろぼろ零しながら、続ける。
「嫌われたと思って、避けてて…!でも、好きです、鏡花さんのことが、」
ふわ、と床が揺れる。ああもう、駄目なのか。
目をギュッとつむる。しかし、待てども待てども睡魔はやって来ない。不審に思って目を開けると、目の前にあるのは箱の中の闇ではなく、日比谷公園……と、鏡花さんだった。
驚いて、後ろを振り返る。燕尾服の彼は呆れたようにため息をついて、にっこり笑った。帽子を取って、お辞儀をする。そして次の瞬間、チャーリーさんは消えた。
「えっ?」
「え、じゃないよこのグズ!」
ぎう、と抱きしめられる。頭には何かが飛び乗った。
消えてしまった奇術師に心の中でお礼を言った。鏡花さんの背に腕を回す。先程とは違う涙が零れた。
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