花送り


※主人公=芽衣ちゃん

 翳ってゆく視界が恐ろしい。この眼が少しでも光を拾えている内に、全てを、この世の夢を、美を、描きとってしまわなければ。筆が動かなくなるまで。
 そう思い、焦燥のままに紙を手に取れば、出来上がるのは粗悪なものばかり。俺の心の乱れがそのまま現れているようだった。
 彼女が帰ってから初めての春が来た。
 かろうじて見える景色を必死に描き取る毎日。鴎外さんやフミさんに色々と心配されたが、筆を止めてしまえば、きっと思い返してしまう。たったひと月の思い出を繰り返し噛み締める女々しさを、自覚したくなかった。描かなければ。俺に残るのはこれだけだ。それさえも失われていくのなら、せめて俺というものを、少しでも多くこの世に残してゆきたい。
 彼女がいない今、自身を動かす原動力はそれだけだった。毎日無心になって学び、視界に映る全てを写し取り、休日も日が暮れるまで歩き回った。

 春らしい陽の柔らかさで目が覚める。今日は、何が描けるだろう。どこまで描けるだろう。着替えと朝食を済まし、外へ出た。車夫を呼びとめ、いつもの様に乗り込む。どこに行こうか迷い、結局彼の勧める場所へ向かうことにした。
 目的地に着く。ぼやける視界を必死に見分け、地に降りた。車夫が去っていく音を後ろに聞きながら、顔を上げた。
 ――舞い散る桃色。淡く色づき、匂い立つような美しさ。春の嵐とも言うべきか。飛んできたひとひらは、俺の鼻先を掠め、野に落ちた。
 涙が溢れた。まさかこの年になって、それも外で泣くことがあるとは。それでも抑えられなかった。

 今年も桜は咲いたのに、どうして君は隣にいないの。
 どうして。
 どうして……。

 頬を流れ、顎へと伝う。それを制服の袖で乱暴に拭って、紙を持ち直した。ここにいない君へ送るために。

 繊細でおぼろげなその桜は、久しく見る自分らしい絵だった。色を乗せていけば、夢のような美しさ、舞い落ちる音さえ現実になりそうだった。
 数日で完成させたそれを持ち、彼女が暮らしていた部屋に入る。フミさんが掃除を欠かさないおかげで、机もベッドも綺麗なままだった。
 部屋を見渡すうちに彼女の幻を見そうになって、ぎうと目を瞑った。中央に置かれた机へ歩み寄る。息を吐いてから、ゆっくりと丁寧に絵を置き、部屋を出た。
 彼女は、もう戻ってこない。既に確信に近かった。ならば、この絵が化ノ神にでもなって彼女の元に現れればいい。彼女の元へ届けばいい。

「……ねえ、桜は咲いたか、教えてくれない」

 いるかも分からぬ物の怪に向かって呟いた。返事は聞こえる筈も無い。それでもしばらく立ち尽くし、半刻経ってから、やっと自室へ戻った。



「あれ?」

 塾が長引き、日が落ちてから帰宅した彼女。机の上に散らばっている花弁は、どうみても桜だった。

「妹かなぁ……。でも、おかしいなあ」

 首を傾げながら、鞄を降ろした。

「桜はまだ、咲いてないよ」

 宙に向かって呟いた。心なしか、空気が震えた気がした。

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