あの帽子は確かに桃果ちゃんだった。今私の手を引いて歩くこの人は、桃果ちゃんに似たものを感じる。


 壁に収まっている本を一冊抜き取り、パラパラとページを捲るお兄さんは、やはりどこか浮世離れして見えた。

「初恋の相手が多蕗桂樹、荻野目桃果とは友達。へえ、桃果ちゃんを知っているんだね」
「知り合いなんですか?」
「うん、まあそんなものかな」

 ふと、絶え間なく動いていた手が止まる。近寄って本の中を覗いてみたが、とりたて気を引くような言葉は無い。私のこれまでの人生が綴ってある本があることにつっこみを入れようか入れまいか迷ったけれど、この不思議な空間にこれまでの常識は通用しないのだと無理矢理思い込んだ。

「……君は、どうして此処へやってきたんだろうね」
「え?」
「どうして……」

 これまで柔和な微笑みを浮かべるだけだったお兄さんの顔が、初めて歪んだ。慌ててお兄さんの腕を掴んだものの、どうすればいいのかわからない。この人の涙は見たくないと、強く思った。理由はわからない。お兄さんが、世界中に見捨てられた子供のように見えたからかもしれない。

「普通に愛され、育ってきた人間は、こんなところに来る筈がない。有り得ないんだ」

 そのときだった。お兄さんの色素の薄い髪が更に薄く……いや、透け始めた。髪だけではない。腕も、足も、全部。
 突然のことに呆然とする私に、お兄さんはいつもの柔らかい微笑を向けた。

「僕は愛されなかった子供。粉々に砕け、透明になった。世界を呪う亡霊の集合体が、この姿」
「ぼう、れい」
「亡霊さ。おぞましい願いしか持たない幽霊。でも、こんな僕を、君は」

 もう、向こう側の景色が見える。何か言おうと口を動かしても、言葉にならない音が散らばるだけだった。
 胸が、痛い。心が痛い。いかないで、と唇を動かしても、お兄さんは眉を下げて何も言わない。いかないで。いかないで。いかないで!

「僕の名前は眞悧。選んでくれてありがとう。君のおかげで、もう二度と世界は壊れずに済むよ」

 殆ど消えかかった二本の腕が、私を抱きしめた。どこからきたのか、沢山のりんごが床を転がっていく。本はバサバサと棚から落ち、辺りは真っ暗になった。お兄さんがまだいるのかどうかもわからない。

「眞悧さ、ん」
「なあに」
「……私の、私の名前は!」

 身体がふわりと浮く感覚に、私は思わず言葉を止めてしまった。腕の感触はない。滂沱となって流れる涙だけが、暗闇で光っている。

「なまえ」
「へ?」
「知ってるよ」

 眞悧さんの、端整な顔が目の前にあった。どんどん近づくそれに何も出来ず、唇に柔らかい感触を認めた瞬間、世界は弾けた。



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