起きたら家の布団の中だった。額に張り付く髪を払って、携帯を見る。不在着信が三件もあった。そして全て薫からだった。プ、プププ、プププ……緊張で萎縮する心臓を激励して、大きく息を吐く。最初の息を吸った瞬間に、声が通じた。

「も、しも」
「この馬鹿! 何で勝手に帰ってるんだよ! 脳が足りないにも程がある、本当に、お前はどうしようもな」

 気づいたら指が勝手に動いていた。途切れた罵声にほっとした後、自分のしたことの重大さに愕然とした。薫からの電話を切ってしまうなんて! いや、だってすごく怖かったし勝手に帰るってなに、どういうこと。そうだお互い落ち着いてからお話したら良いんだそうだそうだよし、じゃあもうひと眠りしよう。……あ、着信。

「もしもし薫、私も薫も少し落ち着いてから」
「勝手に切るなんて良い度胸してるね。俺に五回も携帯を使わせるなんて一体いつからそんなに偉くなったの? ……まあいいや。それよりどうして」

 あれ? また切っちゃった? もういいや。どうにでもなれ。
 再び震え始めるそれを布団に投げて、くしゃくしゃになった制服を脱いだ。お腹すいてないし今日は寝てしまおう。お風呂は明日入ればいいよね。
 ぐっと伸びをしてから首を鳴らした。とても濃い内容の夢を見た気がする。
 薫はどんな夢を見るんだろう。


 年を追うごとに、薫は美しく気高く、女よりも繊細で男よりも勇ましい鬼になっていったが、その代わり、内層は混濁した泥が渦巻くようになった。事あるごとに物を投げ涙を流した。頭を掻き毟り唸った。
 私は彼の名前を呼び続け、振るわれる拳を正面から受け止めた。薫が私を見ていたのはあの夜だけだったけれど、私にはもう薫以外残っていないから、我武者羅にその美しい肢体にしがみついた。愛でも同情でもなく、唯の自己防衛に過ぎないその行為は、やはり薫を止めるには足りない。人間だったものを引き連れての旅は苦しみと恐怖に満ちていた。薫の為に生きたことなんて一度も無い。私の手を引き、名前さえも与えてくれた人に、私は何も返せていないのだ。
 虚ろな目をして妹の名を呟き続ける薫の口に、何度も食べ物を運ぶ。死んだ人を思い続ける薫はがらんどうの人形の様だ。何百粒目かの涙が黒曜石の瞳から零れたのを見止めてから、私は目を瞑って息を吐いた。この世で私が出来ることは、少なくとも一つしかない。
 西の鬼の追っ手は、もうすぐそこまで来ていた。



 玄関を開けると目の前に薫が立っていた。無言で扉を閉めようとしたが、埃一つ無い靴がそれを阻んだ。駄目だ、このままでは薫の足が傷ついてしまうかもしれない。数秒難渋した後、唇を引き結んでドアを開け直す。薫の口元には柔らかい笑みが浮かんでおり安心したのもつかの間、眉間の皺の深さに冷や汗がどっと出た。寒くも無いのに奥歯が鳴る。

「おはよう」
「お、おはよう」
「気分は?」
「は、お蔭様でこの通り」
「そう」

 微笑を湛え眉間に皺を寄せたままの薫は、小さく頷いて私の手を掴む。反応する間も無くつかつかと歩き始める美少年に、私は既視感のようなものを感じた。いつか、こんなことがあった気がする。綺麗な男の子に、強い力で引っ張られたことがある。

「薫」
「なに」
「その……怒らない、んですか?」
「怒ってないから敬語はやめろ、気色悪い」

 やっぱり怒ってる。だが口には出さず胸の内に留めておいた。

「薫、どこにいくの」

 私が扉に挟めてしまった所為で少々埃のついてしまった薫の靴は、学校とは正反対へと私を導く。駅で切符を二枚買い、あれよあれよという間にピークを少し過ぎたがらがらの車両に私を押し込んだ薫は、いつのまにか無表情になっていた。

「風紀委員なのに、いいの?」

 綺麗な形をした唇は微塵も動かない。返答を諦め、ちゃんと座り直し、くあっと欠伸を漏らした。そういえばもう春だ。日の光が暖かい。


 もがき苦しんで、その代わりにやっと発作がおさまった時には目の前に望んだ通りの死体が転がっていた。返り血はかなり浴びてしまったけれど、刀に関しては全くの素人がここまでやれたのだから良しとしよう。
 ふらりと振り返ると、黒い着物を纏った薫が怖い顔をして立っていた。

「……薫」
「勝手に出歩くなって言った筈だ」
「ごめんなさい、でも、もう誰も追ってこないよ」
「五月蝿い」
「薫」
「黙れ」

 血なまぐさい手を引っ張って歩く薫は、出会ったときと何も変わっていないように見える。私ばかりが化け物になってしまったのだろうか。
 ……いや、良い。こうでもしないと、薫の命は守れなかった。正気を取り戻してくれたのも、私があの薬を飲んだおかげだろう。私は、間違ってない、よね。
 此処まで来ても、まだ自分の保身を気にかける心に嫌気が差した。

「ねえ、一応言っとくけど」
「うん?」
「羅刹の発作を止める為に、明日、此処を出る」
「……え」
「俺の故郷へ行く」




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