「俺の故郷へ行く」

 ふと目覚めると窓の外はほんのり橙色で、思わず立ち上がった。寝ていた、のか。……そうだ、薫は? 隣へ目をやると、携帯を弄る男子。桃色の唇から紡がれたのは予想だにしない言葉だった。

「故郷って……薫、引っ越して来たんだっけ?」

 私の問いには答えず、徐に立ち上がる。停車駅は聞いたことのない名前だった。
 颯爽と歩く後ろを必死に追う。艶やかな黒髪からは彼の妹と同じ香りがして、やはり兄妹なのだと今更実感した。
 夕焼けが雲を鮮やかに染める。田舎道をまるで自分の庭のように歩く薫は知らない人のようで、相も変わらず美しい顔は無表情のまま。
 誰の敷地かも分からない山へずかずかと足を踏み入れる美少年にたじろぎつつ、私もそれに習って足を早めた。ふと、足元に、都会では有り得ない程の植物が生えているのに気づく。それだけならば何も思わないけど、その草と自分は同じ名前だったから、思わず足を止めてしまった。
 立ち止まる私を、急かす分けでもなく黙って見つめる薫。しかし、一拍置いてからため息をついて私の名の草を毟り、ずいと差し出してきた。

「あ、りがとう?」

 反射的に受け取るけれど、相手の顔は釈然としないままだ。どうしたの、と言い掛けて、脳がチクリと痛むのを感じた。


「もういいよ、かおる。ありがとう」
「話すな、もう少しだから、水さえ飲めばお前は」
「力になれなくてごめんなさい」

 泣きそうな顔、初めて見た。美しい顔が絶望に歪む。やめて、私なんかの為に心を動かさないで。私は自分のことしか考えられないのだから。貴方の為に泣くことは出来ないから。薫、南雲薫。美しい名前。美しい人。

「助けてくれてありがとう」

次の世では、必ず、必ず薫のために生きるよ。薫のためだけに生きるよ。


 やせ細った小さい身体は俺の腕をすり抜け、白銀に煌く砂になった。月光に反射する輝きに思わず息を呑む。間に、合わなかった。脳内には遺言めいた約束だけが残る。二回もあの阿呆と出会わなければいけないのか。嗚呼、ちくしょう――。

「どうしてお前なんかを覚えて置かなきゃいけないんだ」

 初めて他人の為に泣いた。泣き叫ぶ俺を、月だけが見ていた。



 記憶の糸を必死に手繰る。それでも、何も思い出せない。何かを知っている、それだけしか思い出せない。この南雲薫という美少年と、いつか出会ったことは確信している。わかるのはそれだけだ。それだけしかない。

「薫、私、薫のこと知ってる。ずっと前、薫のことを知ってた。知ってたことはわかるのに何で知ってるのか、それが何時なのか、なにがあったのかわからない。思い出せないよ、薫」

 視界がぼやけて、目の前の薫も霞む。曖昧になった顔の造形が今とは違ういつかの薫と重なった。知ってる、けど知らない。大事なことだった筈だ。絶対に覚えていなければならなかったのに。
 こん、と何故か額が薫の肩に当たった。慌てて顔を上げようとしたが、後頭部にある薫の手がそれを阻む。寝癖でボサボサの髪を、細く繊細な指が撫でた。

「……思い出さなくて良いよ」

 絞り出されたような声。薫の身体は震えている。私と同じくらい、むしろもっと細い腕が私の肩を抱いた。
 いつの間にか日は沈み、空には星が浮かんでいる。いつか、今夜と同じ星空の下で薫と一緒に居た。確かに、居たんだ。
 涙が溢れて止まらなかった。薫は思い出してほしいのだ。だから此処に連れてきた。此処には思い出があったんだ。強い記憶が根付いてる場所なんだ。

「思い出さなくて良い。もう、いい」

 冷たさは微塵もないのに突き放された気がして、私は必死で喉を動かす。

「私、思い出せないけど、薫のこと大好きだからね」

 まだだ、まだ足りない。きつく回された腕は別の言葉を待っているようだった。
 見上げた夜空に星が流れる。こんな山奥で、人気のない場所で、それでも薫と二人なら大丈夫だと思った。

「私、薫と一緒ならどこへでもいけるよ。薫のために、生きていけるよ」











 満天の星空の下、傷ひとつない美しい花が綻ぶ。
 桃の唇が小さく私の名を呟いた。



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