薫の髪は柔らかくてサラサラで深みのある黒だった。私はその髪が大好きで、薫が椅子に座る度に触りに行ったものだ。
 そもそも私は薫という言葉が好きで、初めてその一文字を知ったときは、うっそりとした色気を放つ響きに感嘆した。そして、高校入学してクラスの名簿を見たときに、あっと思った。
 南雲薫。なぐもかおる。なんてぴったりな名字だろう。ふうわりとした雰囲気の中に凛とした響きが感ぜられる。
 同級生と雑談するより南雲薫を一目見たい。同じクラスだしこれから毎日見られるけれど、どうにも落ち着かなかった。まだ登校していないかもだなんて思いもせず、教室へ駆ける。南雲薫。美しい名前の子。
 そしてまだ一人しかいない教室に飛び込んだ私は、窓辺に立つ生徒を見て驚愕した。男子の制服を着ている女の子がいる! 春風に揺れる短めの黒髪と透き通るような白い肌、憂いを含んだ大きな瞳。窓の外を必死に見つめるその姿に、自然と息が詰まった。
 突然、此方を振り返る。ぎくりと身を震わせた私などお構いなしに、険しい顔をした彼女、もしくは彼は、出入り口に立ち尽くした私の横を颯爽と通り過ぎて行った。

 私は薫のことが大好きだったけれど、薫はそうじゃなかった。薫は薫の妹のことが大好きで、大嫌いだと言う。よくわからないけれど、そう吐き捨てる薫の顔は泣きそうで、私は見たことも無い彼の妹が嫌いになった。
 戦いから帰ってきた薫は、今度こそ本当に泣いていた。
 妹を殺してしまったと、泣いていた。


 次の日から私は猛アタックを始めた。薫は私を見ただけで歯軋りをするようになった。そんな薫は美しくないので、私ははっきりと「その顔は嫌いだ」と言ったら薫は眉間にこれでもかというほど皺を刻んで私を睨んだ。恐ろしい。

「薫、私薫のこと好きだよ。綺麗だし、努力家だし、家族想いだし、頭良いし」
「俺はお前が嫌いだけどね」
「私もこんな兄弟欲しいなあ。千鶴ちゃん良いなあ」
「千鶴の名を呼ぶな。穢れる」
「でも、名前呼ぶより穢れそうなことされそうになってるよ? ほら今会長が千鶴ちゃんに」
「あのクソ金髪野郎がァ!」
「だめだよ薫! そんな汚い言葉使ったら薫が穢れちゃうよ!」

 大股で歩き出す薫の襟元を引っつかんだ瞬間、不意に何かがフラッシュバックして、私はその場に膝をついた。ちくちくと脳を食まれるような痛みに蹲る。喉の圧迫に顔を顰め振り返った薫は、そんな私を見て目を見開いた。

「なに、どうしたの。怪我?」
「かおる」
「……お前」
「かおる、かおる、かおる」
「飲んだの? 変若水」
「かおる、だいすき」

 そいつは口から緋色の液体を滴らせて蹲っていた。顔だけ上げて、俺を見ている。痛んだ髪がゆっくりと色を失うのを、俺は黙って見つめていた。
 何か言おうとして、けれど言葉は出てこなかった。
 唯一神である妹をこの手にかけ、その上勝手についてきたとはいえ、こいつは、最初からずっと俺の味方だったのに。

「   」

 初めて名前を呼んだ。
 涙も出なかった。


 目が覚めて一番最初に目に入ってきたのは、おそらく保健室であろう白い天井。起き上がるまでに、夢の内容は忘れていた。
 喉が痛くてたまらない。

「み、水……」

 ベッドから降りて、水を求め廊下へ出る。時計はもう放課後であることを示していた。
 橙色に染まる廊下、舞い込む風。何処からか男女の話し声がして、反射的に足を止めた。この声は……薫と、千鶴ちゃん。

「……薫、わかってるんでしょ」
「……」
「多分、これが唯一のチャンスなんだよ。次はもう会えないと思う」
「……ああ」

 薫の声は震えていた。私は狂気的にも見える廊下を走って戻る。
 触れてはいけない何かの断片を掴んだ気がして、怖かった。


 綺麗な顔に青い花を咲かせた男の子が私の手をとり立ち上がらせてくれた。ぷっくりと膨れた唇の端が少し切れて血が流れている。私が砂だらけの布で拭こうとすると、小さく首を振って拒否をした。男の子は裸足だったので、私の擦り切れた草履を片方あげた。私が一歩足を踏み出すと、男の子は駆け出した。握った手は離れない。二人で走って、走って、大人が来ないところまで走った。男の子は大きくて黒い棒のようなものを抱えていたから、決して追いつかれないとは言い切れない速さでしか逃げられなかった。それでもつかまることは無かったから、きっと……追ってこれないようになってしまったのだ。男の子の大荷物からは生臭い鉄の匂いがした。

「なまえ、なんてゆうの」
「ゆ……南雲薫」

 お前のは? と、段々小さくなっていく歩幅を気にせず問いかけた薫の横顔はとても綺麗だった。月光に照らされて肌が青く染まっていて、固まった血液が黒に変色している。痣が丸い頬を装飾していて、子供ながらにこんなに美しくて寂しいものはないと思った。

「なまえ、忘れちゃった。良かったらつけてほしいな」

 眉を顰めてから、薫は小さく頷いた。月が色を失って、足が傷だらけになる頃、薫は足を止め、私を見た。それから足元に群生している植物を指差した。暫くして、私はようやくその草の名が私の名になったのだと理解した。実感はなかったけれど、薫が初めて笑ったから、私は嬉しくなった。きっとやっていける。




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