自分が何故入院しているのかなんて知ろうとも思わなかったから、ただ黙ってお医者様の言うとおりに過ごしていた。テレビは見ようと思えば見れたけど、本を読んでいる方が面白いから、寝ているとき以外はずっと読書していた。それを見た大人たちは、よく「えらいね」と褒めた。同じような声音で。同じような笑顔で。

 看護師に身体を拭いてもらってさっぱりした後に、戸棚から文庫本を数冊取り出した。推理小説もいいが、恋愛小説も面白い。読みかけの一冊を開いて、早速文字を辿り出した。


 何時間経っただろう。

 平生消灯時間を知らせにくる看護師が来ない。最終章まで進んだページを一瞥してから、ありふれた恋愛を綴るそれを戸棚に戻す。……異常は既に始まっていた。

「今夜は冷えますね」

 夜闇の深いところを掬いとった声に、全身が凍った。唯一動く目玉を左に九十度。揺れる悲鳴は羽虫の音より小さく、人を寄せるには足りない。
 鴉の濡れ羽とは良く言ったものだ。サラリと乱れる髪はそこらの女より格段にうつくしい。つり上がった眼とそれに沿った眉。象牙の肌はきめ細かく見るのさえ躊躇われる。美丈夫、と頭に浮かんで、しかしすぐに打ち消した。――額に、一角。

「お迎えが来たんですね」

 存外震えた声に、男はゆるく首を振った。

「鬼灯と申します。死神ではありません」

 骨ばった人差し指が、胸の前で交差する。硬直が解け、ふっと息を吐いた。
 いや、まだ問題は残っている。死神でないならば何なのだ。きっと、というか絶対に人ではない。
 震え始めた左手に、氷の手のひらが重なった。主は隣人より他はない。

「貴女の肉親は大罪を犯しました。子の貴女にも罪がまわるほどの」

 かわいそうに、まだこどもでしょう。しんせきもきょひしたんですってね。きおくしょうがい、うつびょう、きょしょくしょう。わらわないのよあのこ。ぶきみよねえ。はやく、はやく

(いなくなって、くれないかしら)

 なんだ、全部知ってたじゃないか。入院の理由も退院できない理由も、大人が同じ顔をする理由も、全部。
 男の指が手の甲を滑って小指をなぞる。きゅ、と結ばれた指と指を、私はぼんやりと見つめた。形の良い唇が、ふわりと緩む。

「貴女は必ず地獄へ来る。……私と指切りを交わして下さい。そうすれば、貴女を罰せるのは私だけになる」

 頷いた永遠の一瞬、氷のような風が吹き抜けた。男の着物が激しくはためき、私の髪は滅茶苦茶になった。窓の外に提燈の灯りがぽつぽつと並び、妖しく揺れている。












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花吐き様に提出
ありがとうございました


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