震える独り言を聞き終わった大天使ルシフェルは、何時ぞや見た人間の真似をした。溜息をついて、顎に手をやるという至極単純な動作。だが、彼がやると酷く神々しく気高いものとなる。悠はそれを泣きそうな顔で見ていた。

「私からは何とも言えないな」
「大天使様」
「人間としての悩みなら神に言うのが良いんじゃないか? 私は、君に邪悪を感じたことなんて一度もないからね」

 黒の瞳に水の膜が生じ、揺れる。今にも零れてしまいそうだ。欠伸を噛み殺しながら、ルシフェルは何故この子はイーノックに相談しないのだろうと考えていた。私より的確な答えを出してくれるだろうに。……もし明確な答えが出なくとも、私よりは真剣な態度を見せるだろう。それなのに、何故。

「それか……そうだな、アークエンジェルにでも聞けばいいんじゃないか? 彼らは物知りだ」
「そんな、恐れ多い」
「私は恐るるに足らないのか?」
「あっ、いえ、その……そうじゃなくて、大天使様なら答えをくれる気がしたので」
「……それは、すまなかったな」

 力になれなくて。責を感じる風もなく言った彼に悠は謝罪を返す。それもまた消え入りそうな声だったので、流石に彼女が気の毒になった大天使は書記官への相談も勧めた。彼女は黙って俯く。どんな表情をしているのか、少し気になった。

「ろっと、そろそろ仕事をしなければ。悠、あまり悩むなよ。君にとって仕事に集中出来ないのは命に関わる」
「はい、ありがとうございました。気をつけます」

 指を鳴らして目的地へと向かう。最後に見た彼女の顔は焦燥に満ちていて、ルシフェルは彼女がイーノックを好いていたのを思い出した。別れ際に答えを見つけるとは、全く。
 だが、たとえ数刻前に思い出したとしても、教えることは出来なかった。出来れば知らないほうが良い。気づいてしまえば、彼女はそれに飲み込まれるだろう。まだ成熟しきっていない彼女は。





 愚かしいことを聞いてしまった。寝つきが悪いとか食欲不振だとか、そんな些細な悩みをどうして大天使様に相談してしまったのだろう。彼の言うとおりイーノック様に言えば良かった。彼もまた私と同じ人間だ。それに、親しくしなければならないのだから、その為にはもってこいの相談だったのに。
 先程まで大天使ルシフェルが腰掛けていた木製の椅子を見つめながら、悠は涙をひとつ落とした。矢張り、何故かもやもやする。己の中に魔があるのではないかと疑ったが、誰に聞いてもその疑念は否定される。

「イーノック様」

 穢れのない、うつくしい瞳。私の欲するもの全てを持った人。それから、彼を見ていると心臓がきりりと痛むことがある。どうしてか、泣きたくなるのだ。私が頭を下げると、いつも困った顔をする。そんな彼が、沢山の天使様が、神がいるこの天界に。

「……魔女は、私が倒す」

 ゆっくりと立ち上がり、服の袖で涙を拭った。悩んでいる暇なんてない。いずれ対峙する強大な敵を思い、拳を握る。


 出来れば。出来れば、全力での戦いは避けたい。誰かに軽蔑されるあの気持ちは、もう二度と味わいたくない。
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