次の日、私はまた書道室の奥へと足を踏み入れました。
墨の匂いは色濃く、鼻腔に纏わりついてきます。
「あ、いらっしゃい。」
読んでいた本をパタンと閉じ、顔をこちらへ向けた彼女、苗字さんは心なしか疲れているように見えました。
「失礼します。」
昨日座った椅子に腰掛け、一息つきます。どうにも、彼女の雰囲気には慣れません。
外国で育ったりしたのでしょうか。
「ねえ本田さん、なんで私がいつもここにいるのか聞かないんですか?」
「え?」
「だって、不思議でしょう。」
まさか自分から切り出してくるとは。予想外の言葉でしたが、たしかに気になります。
「まあ…はい。」
私の言葉を聞いて、苗字さんはにっこり笑いました。
「私を頭のおかしい人だと思ってくれてかまいません。ただ、誰かに聞いてほしかっただけなんです。」
「はあ…わかりました。」
ゲームによくありそうな展開です。墨の匂いと彼女の黒髪がそれをいっそう感じさせました。
「本田さんは、漫画やアニメを見ますか?…私は見ます。一度入れ込むと夢中になってしまって、本当にその漫画の世界に行きたくなるくらいでした。」
まあなんと、そういった方でしたか。
私が相槌を打つ前に、彼女は再び口を開きました。
「そうして…そう、目が覚めたら好きだった漫画の世界にいたとしたら…。最初のうちは楽しいでしょう。なんてったって、憧れのキャラクターがそこにいるから。」
でしょう?と目で問うてくる彼女に、ええ、わかりますよ。と返しました。内心、少しばかり落胆。二次元に入れ込みすぎた電波さん、といったところでしょうか。…いや、彼女は最初に断りを入れていたから、自分でそういったことを言うと自覚していた。となると……
「でも、しばらくしたら。だんだんと不安と焦燥に駆られるんです。キャラクターはそこにいるのに、私はなにも変わっていない。何も出来ない。その上、一緒に過ごしてきた友達や家族はいないんです。悲しくなりました。……ねえ本田さん。私、違う世界から来たんです。」
ぽろ、と目から大粒の涙が零れ落ちました。
普通の、なんてことない高校生の女の子。
嘘をつくようには、見えませんでした。溢れた涙は本物です。口から紡がれるのはどこかの御伽噺のような話。
「気が狂いそうでした。目に見えておかしくなっていった私を、先生はこの部屋に閉じ込めました。いえ…この部屋においてくださいました。授業は全部ここで受けています。」
本田さんも、私のところでは漫画のキャラクターだったんですよ。
そう言って彼女は涙を拭いました。ため息をついて、小さな声でごめんなさいと呟きます。
知らず知らずのうちに口から言葉が出ていました。
「どうして謝るんですか。…私は、その、異世界から来た方とお話するのは初めてなので、なんといったら良いのか分かりませんが……。えっと、泣かないでください。」
ああ、どう言ったらいいのでしょうか。彼女の話が完全に真実かさえも分からないのに、私は。
「貴方の話は…たしかに簡単に信じられるものではありませんけど…。でも、…」
明らかに動揺している私を見て、彼女は微かに笑いました。
「ありがとうございます。本田さんに打ち明けて良かった。」
家に帰れば私の愛犬ぽちくんが必ず駆け寄ってくるのですが、今日は一向に来る様子がないので不思議に思いながら制服をハンガーにかけました。
そこでやっとぽちくんが来ない理由が分かりました。
制服からは、あの部屋の匂い―――強い墨の香り。
こんなに強い匂いなのに気づかなかったとは。
……慣れてしまったのでしょうね。
どこか心地よい香りに、私はそっと目を瞑った。