書道室の奥にある、物置部屋。
誰も知らないそこで、一人の女子生徒が緑茶を啜っていました。
スカートの丈は丁度膝ぐらい。現代の女子高校生としては長めで、模範生といえるでしょう。
彼女の座っている木製の椅子はかなり古く、足を揺らすたびに嫌な音をたてます。
「あの…これ、どこに置けばよろしいでしょうか?」
私が控えめに尋ねると、女子生徒はこちらを向いて目を細めました。
答える気配は全く無いので、もう一度問うために口を開こうとしました。しかし、それより先に壁のスピーカーが昼休みの終わりを告げたので、仕方なく近くの棚にファイルを置いて部屋を出ました。
「放課後、またきてください。」
扉が閉まる直前、感情の篭らない呟きが聞こえ、私は少しばかり目を見開きました。
どうしてその時驚いたのか、今でもよくわかりません。声は感情が無い以外にこれといっておかしな点はありませんでしたし、誰も知らない部屋にいるということ以外にとりたて気を引くものは無いのです。
そして最も不可思議なのが、どう考えても不気味な彼女の頼みを受けてしまったことでした。
物置へ続く廊下を歩いていると、グラウンドから野球部の掛け声が聞こえました。
夕日が窓から差し込み、廊下は橙色に染まります。
進むにつれ、強く墨の匂いがして、どうしてか懐かしい気持ちになりました。
扉を開いて中を覗くと、彼女はあの壊れそうな椅子に座っていました。
「いらっしゃい。」
手招きされ、近くに寄ると、別の椅子(彼女のものほどではありませんが、かなり古そうなもの)を指差して目を細めました。座れ、ということでしょうか。
慎重に腰掛けると、思ったよりしっかりと身体を受け止めてくれたので、心の中でほう、と息をこぼしました。
「はじめまして、私は苗字 名前です。あなたは?」
いきなり始まる挨拶にたじろきながら、本田 菊と申します。と名乗ります。それを聞いた彼女は何故か微笑み、緑茶を啜りました。不思議な人です。
会話が無くなり、どうしようかと悩みましたが、そもそもどうして彼女は自分を呼んだのか疑問に思って質問しました。息をするたび墨の香りが肺を満たして、不思議な彼女がいっそう未知のものになります。
「よくわからないけど、なんとなく本田さんと話したかったんだ。驚かせてすいません。」
「…いえ。」
やはり、話し言葉はいたって普通。どこかおかしいのに、その根源がわからない。
よほど難しい顔をしていたのか、大丈夫?と声をかけられ、そこで初めて外が暗くなっていることに気づきました。
「暗くなってきましたし、お話はまた今度でよろしいでしょうか?」
どうか、機嫌を損ねないよう、相手の気持ちを踏みにじってしまわないように。私はいつものように腰を低くして許可を求めます。
「……本田さんて、やっぱり不思議だね。」
「ふ、しぎ?私がですか?」
「うん、変。…じゃあ、明日も来てくださいね。『また今度』は明日ですよ。」
しっかり釘をさされた私はしばらく呆然としていました。私は相手の提案を断るときにはっきりと拒否しないのです。『善処します』『考えます』『また今度』。これらはすべて、人間関係を円滑にするための断り文句。それに気づく人は殆どいません。
彼女は一体何者なのか。私の胸中を見透かした少女。異質な空気。
「ええ。…また明日。」
胸に一つの錘を落とし、物置を出ました。
これが、はじめて彼女と話した日。