市河は多分、俺が思ってるよりずっと繊細だった。

ほどよく伸びた背丈とは結びつかない、それはもっとずっと、市河の中心に近いところにあるものだ。
誰にも悟らせないし、吊り上がった形のいい眉毛でひた隠しにされてきた。

だからまず、しまった、と思った。

知り合って二年、付き合って半年と一ヶ月、肌を重ねて三ヶ月。
俺は何の違和感も感じていなかったのだ。


サークルの飲み会をそそくさと抜けてきて、帰り道のコンビニに立ち寄る。
虚ろな目で冷えた弁当を選ぶくたびれたサラリーマンを横目に、にぎやかなロゴが躍る缶チューハイとビール、テレビを眺めながらつまめそうなさきイカ、それから効き目のわからないエナジードリンクを買って外に出た。

暖房のよく効いたコンビニの外は、当然冷たい風の吹く冬だった。あったかいのは中だけ。
どうせなら熱い缶コーヒーも一緒に買ってくるべきだったかと、冷え切って赤くなった手持ち無沙汰の左手に目をこらす。

暗闇でもわずかな光を反射して鈍く光るのは薬指の指輪だ。
もっとよく見たいと、緩慢な動作で頭上の街頭にかざした。
オレンジ色の光をちかちかとはね返して存在を主張している。
シンプルなデザインとこの鈍い光をいっとう気に入っていたのだが、こうしてじっくり見てみれば、値段に見合う安っぽい輝きしかしないものだと思った。

なあ、こんな安物の指輪にも愛しさを感じてたのは俺だけだったって言うのか。

やるせない気分に、のろのろと動かしていた足はとうとう歩みを止め、どこかの家の塀に寄りかかる。
上を向けばどんよりと垂れ下がった曇り空が広がっているから、そうしたらもう首を垂れるより他ないのだ。


『やっぱり俺たちっておかしい、よな…』


俯いて思い出すのはいつも嫌なことばかりだ。

知り合って二年、付き合って半年と一ヶ月、肌を重ねて三ヶ月。
すっかり慣れた宅飲みに、アルコールで火照った身体と酔いのまわった頭で、隣に寝そべる市河へ手を伸ばしたのは、至極当たり前の流れだった。

だから、あの市河の微かに震えた声を、酒の副作用程度にしか思っていなかった。


『いや、何を今更…、おかしいに決まってるじゃん。』

『え……』


俺は俺の中で勝手に作りあげていた、それらしい雰囲気をくずされたのがすこし、ちょっと、いや、大分、気に食わなかった。
さっきまでむくむくと高まっていた気分が、水風船がぱちんと割れるように急速にしぼんでいく。

仕方なしにのっそりと起き上がって、隣に寝転がったままの市河のほうを見つめる。
少し伸びた前髪が目元に影を落としている。
白熱灯の遠慮ない光がやけに目についた瞬間だった。

俺の視線には気づいているはずなのに、瞳を合わせる気配も、口を開くそぶりも、身じろぎひとつだってしない市河に、なんだか無性に腹が立った。
ただの友人だった頃から、ずいぶんと気の合う俺たちだったから、沈黙でこんなわけのわからない焦燥を感じたのは、少なくとも俺のなかでは初めてのことだった。
そんな自分の内心を快く思わないのもまた自分で、しびれを切らしたみたいに矢継早に告げる。


『…市河は、俺が”おかしくない”って言ってくれることを期待してたの?』
『おかしいよ。どう考えたって反社会的だし、だいたい男同士のそれに意味なんて求めるほうが間違ってるんじゃない?それでも――』

『もういい、もういいから。ごめん、今日はもう帰る。』


表情は見えなかった。慌てる俺の制止も聞かずに、市河はあっという間に部屋を出ていった。
引き留めようと伸ばした手が力なく落下して、ほんの数分前まで市河が寝そべっていたカーペットに触れる。存在を色濃く残すぬくもりがじんわりと伝わってくるのに、

『、人の話は最後まで聞けよ…』


ひどく痛そうな声だと他人事のように思った。



「こんなとこでなにやってんだ、俺は…」


あいつが戻ってくるわけでもないのに、とこぼしそうになるのをぐっと飲み込む。
たまらず漏れる嗚咽は無視。乾いたコンクリートに落ちる水滴も決して俺のものではない。

そうしてどうしようもなく、帰ろう、と思った。そうだ、俺は何のために酒を買い込んだんだ。
明日には笑い話にできるように、安い賃貸アパートの薄い壁も気にせずに泣いて、寝て、そんできれいさっぱり過去にしてしまおう。赤く腫れた目は失恋を歌う切ないラブソングのせいにしてしまえばいい。
あれからもう何日も経つけれど、連絡は一度も、ない。それが答えだ。
なんて後腐れのない最後なんだろう、ああ、でもアイツらしいのかもしれない。
俺はそんな後腐れにすらすがれないのか。

市河の気持ちを汲んでやれなかったのは俺の責任だ。

いや、だいたい、恋人とか関係なく、二年も付き合いがあるのに酒の力を借りなければ本音を言えないような仲だったのだ。
遅かれ早かれこうなっていたのかもしれない。
それが明日や明後日じゃなかっただけの話だ。
こんなのは一生引きずるほどの傷じゃない。

でも本当は、本当なら、本当に、お前となら死ぬまで一緒なんて女々しくて仰々しいことも言えそうなほど、俺は俺なりに運命みたいなものを感じてたんだよ。

なんてセンチメンタルでポエミーな俺。
ポエムなんて年考えろよ、イタイって、と居もしない市河の声が頭のなかで再生されては、じゅくじゅくと胸の傷が膿むような感覚だった。
ああイタイ、イタイ。本当に。


「いてぇよ……」



人気なく冷え切った部屋に帰ってくれば、なんだかどっと疲れた心地がした。
泣くだけ泣いてすっきり忘れてやろうと思っていたのに、みっともなく泣き崩れたあのときで枯れてしまったのか、これっぽっちも泣けやしない。
宛てにしていた流行りの失恋ソングのどれもが、俺の気持ちにはしっくりこなかった。
当たり前だ。自分ですら言葉を選びあぐねている感情を、万人受けするように作られた歌詞なんかに言い当てられてはたまらない。
そうして部屋が暖まり始めたころ、ようやく中身の詰まったコンビニのビニール袋に手を伸ばした。
しばらく常温で放置されていたせいで、袋の外側まで汗をかいている。
がさごそと耳障りな音を立てて、意味もなく買ってきたものを机の上に並べていた。
―缶チューハイ二本、缶ビール二本、発泡酒四本、エナジードリンク二本、さきイカ十本入り。
二人で分け合えるようにと、無意識に選ぶ偶数が、いちいちアイツの不在を突き付けてくる。
そのたびに俺は自分勝手に切なくなるのだ。

さっさと酔ってしまいたいから、ビールに手を伸ばす。
慣れた手つきでプルタブを開けて、わざとらしく喉を鳴らして一気飲みする。
酒の一気飲みは体に良くないからやめろ、と市河は口が酸っぱくなるほど言っていた。
ビールの苦みが妙に目に染みた。自分でももうわけがわからなかった。

そうして順調すぎるほどのペースで酒の缶を空けて、発泡酒三缶目を飲み干したころ、控えめにインターホンが鳴る。とても出る気にはなれなくて、テレビも電気も点けっぱなしの無茶な居留守を装おうとした。二度目のインターホンが鳴る。それでも出なかった。なんとなく緊張感が横たわる。三度目のインターホンが鳴り、半ば呆れたように重い腰を持ち上げた。
時刻はもう十一時を回っていた。世の中には平日の夜に一人ヤケ酒する俺なんかよりもよっぽど常識のないやつがいるもんだ、と少し愉快な気さえしていた。

足許のおぼつかなさに自分の酔いを確かめて、家路につく頃よりもずっと気分が高揚していることに安心する。一人じゃ酔えないんじゃないか、という思案は杞憂だったようだ。

のろのろと足を進めて、玄関に辿り着くまでにどれくらいかかったのか、自分が思っていたよりも早かったのかもしれないが、立ち上がってからドアノブを握るまで、不思議と四度目のインターホンは鳴らされなかった。


「今でます」とドアの向こうの非常識な客人に告げて、チェーン越しにドアを開けてやる。
酔っぱらっていてもわかる、目の前に立っていたのは市河だった。見間違えるはずもない。
でもとても信じられなかった。アイツが、自分から俺を訪ねてくるなんて。


「夜遅くにごめん、でも渡瀬、テレビも電気も点けっぱで居留守はちょっと無茶あるよ」


「そんなんわかってるんだよ」とか、「非常識なんだよ」とか、「時間わかってんなら最初から来んなよ」とか、文句は山ほど浮かんでくるのに、口をついて出たのは、柄にもなく震えた「久しぶり」の一言だった。

一言二言社交辞令みたいな挨拶を交わして、市河を部屋に招き入れる。
幾度となく繰り返されてきた動作だった。

ばかみたいに引きずってた俺と引き換え、市河は驚くほど普段通りに違いなかった。
そこかしこに散らばる酒やつまみの数々を見て、また散らかして〜といつものように笑って小言をこぼすのも、恐ろしいくらい市河だった。
ただ一つ違ったのは、座りもせず寝転がりもせず、ただ立ったままずいぶん穏やかな顔で俺を見つめていること。

瞬間、悟ってしまった。きっと市河は別れ話をしにきたのだ。この数日、アイツにも思うところはあっただろう。あんな罵倒ともとれることを言われて、傷ついたはずだ。
そうして俺に募った文句を言って、拳の一つでもねじ込んで、この部屋に置いていたアイツの物を持って完全にサヨナラ、絶対そうだ。
ああ、俺は本当にバカだ。こんなに手放したくないのに、酔いの回ったこの身体ではまた市河を抱きとめることもできないんだろう。バカのバカ、大ばか者だ。何回でも声を大にして言いたいよ、俺はお前が本当に好きなんだって。
胸が押しつぶされる感覚がして、呼吸もままならないようで、とうとう涙がこぼれた。
いつだってそうだ、陳腐なラブソングなんかでは到底補えない、他の誰でもない市河だけが俺の心を痛いくらいに揺さぶるのだ。

唐突に泣き出した俺にぎょっと目を丸くして、市河は小さな子供をあやすようにどうしたのとやさしく声を掛ける。

「別れ話をしにきたんだろ…っ、そんなの訊きたくねえよ、俺は…!」

「えっ?」

「お前はもう吹っ切れて前向けてんのかもしんないけど、俺はそんなの全然うまくできねえよ…ヤケ酒してんのだって、お前のこと考えると悲しくてやってらんねえからだよ!あの時は俺が悪かったって今じゃ素直に思ってるし、第一俺は簡単に割り切れるほどお前のこと軽く考えてねえよ!お前が思ってるよりずっとずっと俺はお前のこと好きだよ!それに、あのとき俺が言いたかったのはあれだけじゃないんだよ、お前人の話はちゃんと最後まで聞いてけよ!!だから、俺が言いたかったのは――」

「わ、渡瀬一回落ち着こう、ね?」

「だから最後まで聞けって!!!」


押し寄せてくる感情のままにしゃべって、戸惑う市河を気遣う余裕もなく、一番伝えたかったことを叫ぶように言う。あのとき聞いてほしかった、俺の一番の本音。


「俺たちはおかしいよ…おかしいんだよ……でも、それでもお前のことこんなに好きで、おかしいって認めても一生お前のそばにいたいと思う俺がいるって事実が、最強だって俺は思ってるよ!!それを他人がどう思うかなんかどうでもいい、他の誰でもない市河が、どう思うかを大事にしてたいってずっと思ってるよ…」
「もちろん、市河以外の他人をどうでもいいとおもってるのが俺だけなのはわかってるし、誰かに後ろ指さされたり”おかしい”って面と向かって言われて、市河が恥ずかしいと思うのは当たり前だ。でも実際そうなった時、お前が俺を捨ててしまえると思うのなら、こんなのは早々にやめたほうがいいのかもな…」
「俺は…多分一生、同性以外好きになれないけど、それはお前はそうじゃないってことの証明なんじゃないか。」
「市河が決めて。お前の人生なんだから。俺がこんなこと言うのもそれこそ”おかしい”だろうけど、…ちゃんと異性を好きになれるのが一番幸せだ。」

「……言いたいこと、それで全部?」


ゆったりと間をあけて、市河が口を開いた。やさしい声のトーンは変わらないままだ。


「言い終わったみたいだから、まずは誤解を解いておきたいんだけど、俺は別れ話をしにきたわけじゃないよ。渡瀬が俺に言ったこと悪かったって思ってるみたいに、俺もあんな風にお前の家を飛び出していったこと、悪かったと思ってたんだ。そんで渡瀬とちゃんと向き合いたいと思った。…向き合って、俺たちのことしっかり考えたいから、会いに来たんだよ。」


穏やかな口調は崩れない。一言一言噛みしめるようにしゃべる様子に愛おしさが募る。


「…そんでさ、渡瀬は、俺のこと手放したいの、縛っておきたいの、どっちなの?」


呆れのような、困惑のような、眉を下げて笑いながら告げるその様子に、確かに自分に向けられる甘やかな感情を見つけてしまって、もうどうしようもなくなる。


「思い込み激しいところも、酔うと泣き上戸になるところも、案外情熱的なところも、俺のこと大好きなところも、全部全部好きだよ。渡瀬は知らなかったかもしれないけど。」
「…正直に言えば、俺は"おかしくない"って言ってもらえることを期待してたんだと思う。でもよく考えればこれに関しては渡瀬の方が正論だよね。それに気付いてからは、おかしいとかそうじゃないとか、俺だってもう深く考えてなかったよ。ただ、渡瀬に謝って、もっと話をしたいって、もうそれだけを思ったよ。」
「お前の言うとおり、異性を好きになれるなら、それが幸せだよね。俺もそう思うよ。」
「でも俺は、もう渡瀬に触れて欲しいとしか思えなくなっちゃったんだって。こんな状態で俺のこと手放すなんて冗談はやめてよ。…それでも、お前は俺に、この先一人で生きていけとか言う?」

「言わない…言わねえよ……」

「その言葉だけで、俺は十分幸せだよ。渡瀬、言ったよね。"お前の人生なんだから"って。これが俺の人生の幸せだよ」


一度は引っ込んだ涙がまたにじんできて、不確かな手つきのまま市河の身体を抱きしめる。
届かなかった手が、ようやく届いた。


「……なんか、これから心中するみたいだな。」

「渡瀬のためなら死んでもいいよ。」

「…それは今じゃなくていい。だから死ぬまでそばにいてよ。」


耳元で市河の微かな嗚咽を聞いた。なるほど、これを幸せと呼ばずしてなんと呼ぶのだろうか。


「渡瀬、心臓うるさいよ、ちょっと静かにさせて。」

「誰のせいだ、ばーか。」



羊水でまどろむような心地の良さに、俺はなんだか眠いよ、市河。





title:さよならの惑星