金曜の帰路はどこか胸が軽く、西の空の地平線近くで燻る橙の光がよく見える。僕の後ろに影を伸ばす斜陽が疲れきった身体とよれたスーツをじんわりと温めて心地良い。蕾をふくらませた金木犀の木が路肩で揺れて、わずかに香る。夕日でも花の香りでもなんでもいい、僕は今、異様に何かに癒されたい気分だった。

仕事の疲れもあるが、もっと近い、日常的なものに悩まされていた。それはすなわち僕が選んだ道ゆえの結果で、自らの意志のみで逃れることはできないものだ。
ひと気のない通りを一つ右に逸れて、アパートの錆びれた階段を昇る。なんだか枷をはめられたように足が重い。狭い廊下の突き当たり、二〇六号室の表札には、相変わらず『浅井 横畑』と並んでいる。 浅井は僕の姓で、横畑のほうはいわゆる配偶者といったところか。――横畑純。僕が純と呼んで、唯一の存在と認めた、男。

新聞受けには粗雑に突っ込まれた夕刊が挟まったままだ。どうやら純は不在らしい。ズボンの左のポケットを探ってカギを出したその時、背後から「ナイスタイミング」と声がして振り向く。


「おかえり、恵介」


両手にスーパーの袋を提げた純は軽く息を切らしていた。癖のついた短い髪がいつも以上に跳ねている。僕を見つけて、急いで階段を駆け昇ってきたのだろう。


「今日は特売日だったっけ」

「そうそう、つい買いだめしちゃった。今晩肉じゃがでいい?」

「うん」


カギを開けて、少し重い扉を引い て、暗く狭い玄関に二人押し入る。
靴を脱ぐ前に、おかえりのキスなるものを頬に見舞われた。純は僕より背が低いので、背伸びも恒例である。
僕らの関係性を表すには十分なこの一連の流れを、もう何度も繰り返してきた。

三十路をうろつく男二人、ひとつ屋根の下。昔思い描いた通りの未来を問題なく歩んでいるように見える。けれども僕はいまの状況を心から幸せだと思える自信がない。別れたいわけじゃない、むしろいつまでも二人で居られるに越したことはないと思う。なのに現状を素直に喜べないのは、どこかに、このままではいけないと思ってしまっている自分がいるから。

この狭い部屋で純と一緒に暮らし始めて十年が経つ。永遠を誓ったはずの男女が 程なくしてあっけなく離れていくこの時世で、改めて、よくここまで来れたものだと思う。
同棲を始めて間もなかった頃、純の体温をいちばん近くで感じながら、その反面いつか訪れる別れへの不安を抱いていた。もともと神経質な僕の性格もあって、どちらか先に異性の恋人でも作って出て行ってしまうものとばかり思っていた。どうせ男同士、何かが生まれるわけでも壊れるわけでもないのだから、出て行きたいと思えばいくらでも逃げ道は用意されていたはずだ。が、実際どうだ。今も帰ってくる玄関は同じ。朝と晩には同じテーブルを挟んで同じものを食べている。十年間、なにも変わりやしない。


「……あれ、今日のおいしくない?」

「え、」


はっと気づくと、純がきょとんとした表情でこちらを見ていた。次いでテレビの賑やかな音が耳に戻ってきて、目の前に並べられた料理を認識する。箸でじゃがいもをつついたまま、完全に意識がほかのところへ行ってしまっていたらしい。


「箸止まるなんて珍しい。仕事そうとう疲れてたの?」

「……ごめん、それもあるけどさ、考え事してた」

「ふーん。あんまり追い詰めるなよ?ほら、食べて食べて」


僕を追い詰めている張本人がそれを言うかと内心突っ込んだ。一度箸を置いて、湯気を立てた味噌汁に口をつける。白味噌で仕上げられたそれには豆腐と大根と白菜がとろけていた。喉から食道を通って身体の中心、末梢まで熱が 染みわたっていくのがわかる。けれどその優しい温度も心の中の懸念までかき消してはくれない。

──純に、打ち明けるべきだろうか。純は平行線をけっして揺るがないこの日々に納得しているのだろうか。

こんな話をすれば純は離れていくかもしれない。たとえこのままの生活が続いても、今の関係が保たれるという確証はない。けど、踏ん切りがつかないまま引きずるよりはましだろう。
聞きたい。今すぐに。


「……純」

「ん?」

「話があるんだけど」


さっきと同じ、きょとんとした顔。でも僕があまりにも深刻そうな表情をしていたのか、何か察したようだった。咀嚼していたものを飲み込んで、一息置いたあと、純が続けた。


「 大事な話?」

「うん」

「今しなきゃだめな話?」

「うん」

「……さっき恵介が考え事してたのって、その話?」


うん、と相槌を打つ。純は少し考えて、横に置いてあったリモコンをとってテレビを消した。まるで別世界に切り替わったように部屋が静まり返る。


「わかった。でもご飯冷めちゃうから、食べてからにしよう、ほら」


純は笑顔で促した。いつもの能天気な笑顔じゃなくて、子どもを諭すかのような説得力を以て。

それからは、いつも他愛のない会話がなされる食卓に音は交わらなかった。僕も純も何も話さなかった。ただ黙々と箸をすすめたせいか、いつも以上に、純の手料理の味が口に馴染んだ。不安が拭いきれ たわけではないものの、少しだけ心が楽になっていた。

食事を終えて、食器を片付けて、またテーブルを挟んで二人向き合う。まだ部屋には夕飯の匂いがかすかに残っている。なんだか、説教なんかで母親とこうして向き合った時の一方的にかかる威圧を思い出した。規律よく刻む秒針の音がまた僕を責め立てたものだ。僕から話を切り出すのを待つかのように、左手で頬杖をつく純の穏やかな双眸がこちらをまなざしている。


「恵介」

「……純、」


とうとう僕は口火を切った。


「もう一緒に住んで十年になるんだな」

「……うん」

「純は、これからもこのままの生活でいいと思ってるのか?」

「え?」


意表を突かれたように、純の声が少し上ずった。


「急にこんな話して悪い。けど、純ももう三十だし、僕もすぐ追いく。……その、きっと親たちも、そろそろ結婚云々とか真剣に考えてると思う」

「……まあ、そりゃそうだろうけど」


既に居たたまれなくなってどうしても目を合わせられない。面と向かって話すべき場でそれができない自分に嫌気が差す。
そもそも僕たちは間柄を親には打ち明けていない。家賃を折半できたほうが楽だからといって、友達とのいわゆるルームシェアという形で通している。けれど同棲を始めた頃には既にそういう関係性に成り立っていた。
僕と純は大学の同じ学科で知り合い、趣味が合って話もしやすかったのですぐに親しくなった。それが徐々に互いの人間性に惹かれていって、同性同士での定義は判らないが
一般的に恋人同士と呼ばれる存在になった。結果、形として残すものも形式として成せるものも何もない関係を今日この日まで引きずることになったのだ。


「もしかして、親御さんに責められたりした?」

「いや。でも今の状況は、僕らにとっても、親にとっても、最善じゃないと思う。やっぱりちゃんと結婚したほうが、」

「別れたいの?」


はっきりと、そう問われた。まさに単刀直入といわんばかりの言葉が僕の胸を貫いていった。純が憤りもせず泣きもせず、ただまっすぐに僕の目を見てそう尋ねるのがまた僕を圧迫する。


「違う、別れたいとかじゃなくて」

「ほんとに?好きな女の子ができたとかなら正直に言ってよ」

「……僕が好きなのは純だけだ」


わかっていてこういうことを訊いてくるのがまた、たちが悪いと思う。相手を正面にして好きだなんて言ったのはいつ以来だろうか。思わず逸らした顔に熱が集まってくるのがわかる。


「恵介、矛盾してる」


ごもっとも。純は、ふふっと微笑んでから、安堵したようにため息をついた。


「……あんな切り出し方されたから、恵介にほんとに好きな子ができたと思った。僕はさ、恵介の幸せが一番だと思ってるから、もしそんな日が来てもちゃんと受け入れられるって思ってた。……でもさっきすごく動揺しちゃって。今別れたいって言われてもたぶん、なんとかし て恵介を繋ぎとめようとしそうだなあ」

「……ごめん」

「ううん、恵介なりに僕の幸せを考えてくれた結果だし。まあ、ちょっと真面目すぎるところもお前らしいけど」


そういって純は、テーブルの上に投げ出していた僕の右手を両掌で包んだ。よくドラマで見た、まるで停滞期の夫婦のそれのようだと思うと途端に面映ゆくなって仕方がない。けれど、張り詰めていた秒針の音はたしかに弛緩して、なだらかな時間を紡いでいる。


「じゃあ、純は、このままでいいのか」

「うん。恵介がどうだかは知らないけど、少なくとも僕は、十年前も昨日も今日も、恵介と同じ家に帰って来れることが、嬉しかった」


純の頬がすこし赤らんでいる。右手に触れる純からわずかに脈が伝わってくる。改まってこういう話をするのが照れくさいのは、僕も純も同じだ。
この歳にもなって初々しい感情が目を覚ました。
十年間、好きで。たぶんこれからも好きだ。僕はそっと、下ろしていた左手を、純の手に添える。
俯きがちに目だけをこちらに向ける純と視線が合う。恥ずかしくても今度は逸らさなかった。鼓動が波打つ。呼吸がままならなくなる。と同時に、身体中が満たされる。好きな人がこんなにも近くにいることの幸せを、僕は忘れていた。

その後、二人で晩酌を交わした。この間の純の誕生日に僕が買ってきてやった、ちょっと高めのやつだ。僕は焼酎があまり好きではなかったけど、純に 勧められて飲んでみたら、わりといけるものだと思った。この独特の香りと苦味も美味いと感じられるほど大人になったのだろうか。
ほろ酔い機嫌に浮かされながら、大学時代の懐かしい話や最近の職場での愚痴なんかで会話が弾んだ。


「……ねえ、久々に一緒に寝ようよ」


閑話に一段落がついたところで、出し抜けに純が誘いを申し入れた。頬の上あたりが薄桃色に火照っている。
仕事があった日の僕は疲れきって寝室までたどり着けず、居間の小さなソファでひとり不貞寝することが多くなっていた。だから単に二人並んで寝ようと言われたのかもしれないが、それは二割。残りの八割をある種の比喩的表現に僕は賭けてみた。


「酔ってる?」

「ん、ちょっとね」

「そっか」


空いたグラスをテーブルに置いて、ぐっと伸びをする。心は幾分か軽くなっていたが、運動不足が祟って体はなまっている。ついでに日々のデスクワークの代償で肩凝りも根づいていた。昔のようにできるかはわからないけれど、今日は夜が更けるまで、純の熱度に浸かっていたい、そう思った。

寝室は僕がしばらく使わなかったせいか、純の匂いが染みついている。薄暗い部屋に構える白いダブルベッドは、このアパートを借りたときから変わらない。二人分の体重にぎしりと音を立ててマットレスが沈んだ。仰向けになった純の胴体に覆い被さると、ほんのりと酒の香りが鼻腔をくすぐる。
ゆっくり、首に、唇に、キスを這わす。最初はぎこちなかったが、だんだんと感覚が蘇ってくる。カーテンの隙間から漏れる蒼白い月明かりだけを頼りに、ゆっくり、ゆっくり、確かめ合うように肌を重ねた。



***



「恵介は結婚しなきゃみたいなことを言ってたけど、要するに親御さんに孫の顔を見せてあげたいの?」

「いや、僕は別に……ただ、それが両親の望みなんだろうなって」

「ごめんな、子ども出来ない身体で」

「そういうこと言うなよ」

「冗談だって」


顔こそ見えないが、弁解する背中はどこか悲しそうな表情をしていた。横になる純の後ろから腕を回して、そのなだらかな肩に顔をうずめる。ほのかに温かい。


「……あのさ、恵介」

「何」

「僕ずっと黙ってたことがあって?……実はうちの親には、もう僕らの関係打ち明けてある」

「え?」


僕の腕の中で純が寝返りを打つ。顔を見合わせる形になった。


「誕生日に実家から電話かかってきたばっかりなんだ。おめでとう、の後に、やっぱり結婚について言われてさ。僕が口ごもってたら、そりゃあんたにはもう大切な相手がいるけどって言われて」

「……それは僕のこと?」

「他に誰がいるんだよ」


純がくくっと笑いを噛み締める。


「やっぱり親ってちゃんと見てるんだ、子どものこと。ばっちり感づかれてたみたいだったから、恵介とのこと、全部話してやったよ」

「……それで、 親御さんはなんて?」

「うん、まあ、まだまだ若いんだし、これからどうとでもなるでしょ、って。」


――若い、か。

三十歳。人生の半分に達するにはまだ早いかもしれない。
僕は勝手にはたちの頃と今を照らし合わせて、随分と年老いた気になっていた。ひたすらに相手の身体を求あう年頃だった時分は、こういうやり方でしか純を近くに感じられなかった。毎日のように、何度も何度も執拗に自らの痕を残すことで満たされていた。けれど今は違う。
今なお若い僕らはこの十年間で大人になった。


「……欲を言えば、ちゃんと結婚して、普通の家庭を持ってほしいって言ってたけど、でもどんな形であれ、あんたが幸せならそれに越したことはないってさ。だから、恵介、」

純は僕の胸に顔を沈めた。やわらかな髪が首に触れてこそばゆい。

「できることなら僕はずっと恵介の傍にいたい」

「……そっか」


あえて僕の気持ちは伝えなかった。僕も両親に打ち明けてからじゃないと、確固たる答えは返してやれないと思ったから。けれど抱きしめる力の強さで純はきっと悟ってくれただろう。
純の鼓動を感じながら、夜明けまで寄り添った。



***



週初めの勤務を終えて、いつもの帰路につく。
つい先週まで西の地平線近くを焦がしていた夕日はほとんど姿が見えなくなってしまった。もう以前のようなきらめきを絶やした空の奥と対照に、僕の心は清々しく晴れていた。早く家に帰って純に伝えたいことばかりが頭の中を泳いでいる。僕を早足にさせるのは、十年前に似た、無邪気な胸の高鳴りだった。路傍の梢に花を咲かせる金木犀の香りが、少し冷たくなった風に乗って、僕の頬を掠めていく。


『久しぶり、恵介。それから誕生日おめでとう』


昼休み、デスクで昼食をとっていた最中に実家から掛かってきた一本の電話。今日は僕の三十回目の誕生日だった。携帯電話越しに聞こえた母親の声は、もうすぐ還暦を迎えようとしている齢だなんて感じさせないほどに若々しかった。


『ごめんね、お昼どきに。夜はちょっと出かけるから今しか時間なくて。元気?』

「……うん」

『そう、よかった。相変わらず純くんが作ってくれる弁当食べてるの?』

「うん」


母さんは僕の大学時代から純をよく知っている。何度か顔を合わせたことがあり、愛想のよい純を自分の息子のように気に入っていた。二人暮らしを始めた時には、純くんは一生の友達になるだろうから大事にしなさいなんて言われたものだ。


『いいわねぇ。もしかしてあんた、お嫁さんいらずなんじゃない?』


思わずゲホ、ゴホッと咳き込む。もし何か咀嚼していたならとんでもないことになっていた。母の軽やかな口調で言われるとなおさら冗談なんだか判らない。が、暗に結婚の話を持ち出すんじゃなかろうかということは察することができた。――母さんにとっては望まない報せだろうけど、僕はもう覚悟をきめている。


「……あの、母さん。僕もしかしたら結婚はできないかもしれない」


気立てのよい声が聞こえなくなって、沈黙が流れた。きっとどう反応すればいいのかわからないのだろうが、ここまでも予想の範疇である。けれど次にかけられる言葉までは想像がつかなかった。


『……私はだいたいピンと来てたわよ。純くん、でしょ?』

「え、」


どう反応すればいいのかわからないのは僕のほうだった。やはり親にはすべてお見通しだというのか。
その後はほとんど純の親と同じような理屈で説き伏せられた。
まだ若いんだから選択肢はいくらでもあると。そして何より、僕の幸せが一番だと。僕と純の関係を百パーセント承諾してくれているわけでは ないが、それでも母さんなりの心遣いが嬉しくて、電話越しの言葉に頷きながら、目の下が熱くなっていた。


『何か悩みでもあったら、電話かけてきてくれてもいいのよ?母さん、可愛い息子のことが心配なんだから。仕事もほどほどに頑張りなさいね』

「うん、ありがとう。」


ありがとう。何度口に出しただろう。
僕が思っていた以上に母という存在は寛容で、やさしかった。最近いろいろと葛藤があったせいで情緒不安定な僕は、涙が零れそうになるのを必死にこらえていた。

足枷が取れたように、アパートの錆びれた階段を昇る足取りが軽快だ。狭い廊下の突き当たり、二〇六号室の表札には、相変わらず二人分の姓。新聞受けには何も入っていない。
ドアを開ければきっと、いつものように純が迎えてくれて、あのキスを見舞われるんだろう。
そしたら、ちゃんとこの間の答えを返そう。僕の気持ちを咎めるものはもう何もない。
今までありがとうと。これからも純と一緒に居たいと。僕は今とても幸せだと。やっぱり僕には純しか居ないと。好きだ、愛してると。それから、それから。


「ただいま」


ドアを開いて十年の境目を踏みしめた昂揚は、まるであの頃の。