最後に俺が学年の一番後ろの端っこの席に到着し、担任は一息入れ微笑んでから手で座るように促した。
腰を落ち着けてから、この制服を着るのも今日で最後か、と何となく胸のあたりを撫でてみる。腹の方は山本にもらったカイロのおかげでじんわりと温かい。不本意とはいえ、後で感謝すべきだろう。頬に触れる空気はぴりりと冷たい。「ぴりり」の中には緊張、惜別、あるいは式後への期待なんかの感情も含まれている気がする。

またすぐに立ち上がる。練習は何回かしたけれど、これで最後だ。
予定通りに式は進んでいく。外で鳥の鳴く声が聞こえた。日差しに舞う埃にそっと目を細めて息を吐いた。

一番前に翔平のぴんぴん髪のはねた頭が見えた。ただその頭は少しもぶれずに一回り小柄な同級生の中にすっと背筋を伸ばしてそびえている。

すぐわかる。こんな風に翔平を見るのももう何回目だろう。

ああでも、これも最後か。
もうすぐだ、もうすぐだ、という妙な高ぶりに徐々に染まっていく。
卒業生呼名、の声に、時間が止まったように感じた。


「1組、1番、相浦翔平。」
「はい。」


鋭い返事は野球部仕込みのそれだったが、どこか深みがあって冷え切った体育館によく響いた。続いて立ち上がると、止まっていた時がそっと動き出した。

2番目の生徒が呼ばれた。3番目の女の子の声はいつも小さくて聞こえない。4番目、5番目……段々初めのかたまった空気がやわらかくなっていく。あれ、今のやつもう泣いとるんか。

俺の順番はもっとずっと後なのでリラックスして待つ。慣れだ。



   ○



行ってきます、と静かな裏口に言い残して家を出ようとしたところギリギリで、清水さんに見つかった。


「あら、もう出るが。」

「あ、はい……翔平が待ってて、」


俺は閉めかけた扉をもう一度開けて軽く会釈をした。


「凛太朗くんがもう卒業なんて、早いわあ。この間までこんなに小さかったんに。」


清水さんは手のひらを水平にして胸のあたりを押さえた。


「それは中学生のときの身長でしょ……明日からはお世話になります。」

「最初はとにかくお皿洗いやし、頑張って。」


と、仲居衣装の袖をまくってガッツポーズを作り笑う清水さんに


「はい、頑張ります。」


つられて俺も笑った。

鍵は自分で閉めるからと言って清水さんには先に仕事に戻ってもらった。
石畳の道を歩きながら、父さんと母さんの話をしなかったのはわざとだろうな、と考えた。
その方がありがたい。自分の家については十分わかっている。今日で最後の卒業式になるが、結局両親が俺の晴れ姿を見ることはなかったわけだ。

掃除をしている近所のお店の方に挨拶しながらいくつか角を曲がって大通りに出ると、道路の向こう側の橋のたもとに翔平が立っていた。

車が少ないので走って横切ってしまいたかったが、すぐ横に交番があるので仕方なく横断歩道の前に移動する。前に翔平がお巡りさんに捕まって2人一緒にこっぴどく叱られたことを思い出してふっと軽く吹き出した。俺に気づいて手を振ってきたから振り返した。車はないのに信号がなかなか青に変わらない。翔平はずっとこっちを見てる。

やっと赤色のランプが光った。俺は気まずさから解放されることにホッとしながら、翔平の元へ駆け寄った。


「はよ、ごめん待たせて。」

「なーん、全然大丈夫。」


若干息の上がったダサい俺に、翔平はピースサインを返して、2本の指先をぴこぴこと折り曲げながら笑った。

こいつの自然な笑顔はこれからの俺の仕事にも必要になるだろうか。さっきのお返しとばかりにじっと見つめてやると翔平は「何?」って全然気にしてないみたいだ。


「何でもない。」


いくら時間に余裕があるといってもバスの時刻表を考えるとそろそろ動いた方がいい。話は歩きながらでも出来る。


「ついに俺らも卒業やー。」


言葉に合わせてはあっと息を吐くと、白いもやが浮かんだ。


「ほや。……凛太朗は、明日から『修行』開始か?」


風が吹くと、もやはいとも簡単にかき消されてしまう。


「うん。まあ最初は皿洗いやろうな。あー冬場辛そう。」

「野球部の夏合宿の方が絶対辛いと思うわ。」

「いや、わからんって! にしてもほんと翔平すごいわ。甲子園に大学推薦やもんなあ。」


翔平は去年我が校を甲子園まで連れて行った立役者だ。全国の高校球児憧れの地で、堂々としたピッチングをするその姿に感動して、俺も踏ん切りがついた。家に帰ってすぐに実家の料亭を継ぐ決意を告げた。父さんは俺に夏いっぱい考える時間をくれたが、俺の考えは変わらなかった。翔平も優勝とまではいかなかったものの、大阪の大学からのスカウトを受けて進路を決めた。

入り組んだ横道に入る。こういった道は城下町だった頃のなごりで、土地勘がないと迷ってしまうことも多い。

バス停への最短ルートを歩みながら、ふつふつと言葉を連ねていく。


「大阪かあ。」

「うーん。」

「ははっ。なんなん、その苦笑。」

「ほーや大阪やーって思ってん。俺こないだ引っ越しの準備に行ったのが初めてなんに、もうそこに住むんやなーって思って。」


翔平はそこで一旦区切って、左手にある寺に目を移した。まだ寒い春先、立派な桜がこぼれそうなほどたくさん咲いていた。


「なんか……遠いな。」

「大阪なんて新幹線ですぐやろ。それに去年もっと遠くまで行ったが! お前甲子園どこにあるんか知っとるんか?」

「そんくらい知っとるわ!」


振り返りざまに突っ込まれた。俺は笑って返す。足元で踏みつけた花びらと砂利がざり、と音をたてた。

なあ翔平、お前、その寺見ることこれからしばらくないんやぞ。俺とこの道歩くこともしばらくずーっとない。
桜の季節には、帰ってきてくれるんか。
なあ、いつでもいいから、翔平、お前、いつ帰ってくるんや。

小学校から付き合いのある幼馴染が、親元を離れ、この町から、俺から離れようとしている。
寂しいなんて恥ずかしいし気持ち悪くて言えるはずがなかった。


「卒業、か。」

「うん?」

「何でもない。」


俺はいつも通りに馬鹿話しながら翔平の隣を歩き続けた。



   ○



俺の出席番号より5つ若い番号のやつがステージに上がった。
やっとやな。 

静かに立ち上がって歩き出す。音楽の先生の伴奏曲が切り替わった。最後の合唱コンクールでの課題曲だ。
最後まで耐えていたやつが一人、また一人としゃくりをあげ始めた。先生、泣かせにかかっとるな。

先生方の座る列に精一杯の礼をして、前に向き直った。
3年1組男子1番が、そこに座っている。
真っ直ぐ見つめあったら吹き出してしまいそうな気がして(実際に小学生のときにやらかしてしまい、先生達から一斉に睨まれた。)練習のときは翔平の肩のあたりを見るようにしていた。
でも今はなんとなくそんな気は起らなくて、自然と顔を上げた。
翔平の目にはこれっぽっちの涙も浮かんではいなかった。ただ、ほんの少し眉を寄せ唇をかたく結んでいた。
その瞳は俺が初めて見る翔平だった。憎しみや妬みとは違う、でもそれに似たような熱い色味を蓄えた瞳でじっと目だけを見つめられた。
……何が言いたいん、翔平。
瞼を少しだけ下ろして、見つめ返した。
俺はそんな翔平を見たことがないんやからわかるわけないやろ。

この式が終わったら、翔平は俺に教えてくれるだろうか。



   ○



それなりに式後の盛り上がりに身をまかせてから、家路についた。

バス停で翔平と会えたのはラッキーだった。俺は式中での出来事について訊きたくて仕方がなかった。
しかし騒がしいバスの中では話す気になれなかったし、バスを降りてからどう切り出そうか考えあぐねていたら翔平が勝手に喋り出してしまった。

適当に相槌を打っているうちに俺も話にのってしまい、気づけばいつもの待ち合わせ場所である橋のところまで来ていた。

このまま離れ離れになって、あの特別な翔平についてはわからずじまいなんだろうか。俺はそれでもいいような気がしてきていた。


「あー、じゃあ翔平、これで……。」


ぎこちなく歩みを緩めて、翔平に声をかけた。とそこで気づいたが、翔平のおしゃべりはとうに止まっていた。


「……どうしたん?」

「あっ!? あ、いや……なんでもない。」

「そお。」


言葉に続いて足も止まってしまった。
翔平の家は川の向こうだから、俺はともかく翔平がこちら側に留まる理由はないはずだ。
今が、尋ねるときなのだろうか。


「あの、翔平、」

「あのさー凛太朗……ってあ、ごめん。かぶってしまった。なに?」


丁度目が合って、さっきの翔平の瞳とは全然違ういつも通りの茶色い目のはずなのに、俺は何もわからなくなって言葉が出てこなくなった。


「いやいやいや、なんでもない。翔平こそ何?」

「ほーなん? ならさ、あのさあ、今日凛太朗の家まで行ってもいい?」

「え?」


俺の家は店の奥だから、騒いだりしたら迷惑がかかるといった理由で今まで翔平をも含む誰も招いたことがない。
そんなことを翔平が知らないわけがないので、唐突な願いに俺は面食らってしまった。


「いや、俺の家は、」


そこまで言ったところで翔平はしまった!という顔で口を「あ」の字に開けた。


「違うげんて、家の前! 前までだから! 前まで一緒に帰らせてって意味ねんて。」

「あ、そうなん? なら全然良いけど。」


俺達は並んで信号を渡り、角を曲がって茶屋街に入った。しばらく歩くとがらりと雰囲気が変わる。瓦葺の屋根に、紫や紺、若草色の暖簾。約200年も前の街並みがまだ残っているのだ。
ちらほら佇む観光客が物珍し気に写真を撮っているが、俺にとっては近所の何の変哲もない風景であるので、顔見知りのお店の方に挨拶をしながら歩みを進める。


「なあ。」


さっきとは打って変わってだんまりだったのに、急に声をかけられて肩が飛び上がるほどびっくりした。


「おお、なに?」

「さっきのとこの交番、昔お巡りさんに怒られたことあったよなあ。」


 翔平はいつもの笑顔で俺を振り返った。ふっと肩の力が抜ける。


「ああ、あったよなあ。」


少しだけ歩く速度を緩めると、その雰囲気にのせられて言葉を紡ぐ。


「ほんなこと言ったら、お前、小さいとき喧嘩してこの辺で別れたら、道に迷って大変なことになっとったやがいね。」

「うーわー! それ言わんとってって!!」

「すごい騒ぎになっとったよなあ。ここいらのお店の人、多分まだ覚えとるぞ。」

「ほんとにご迷惑おかけしました……。」


ははは、と俺の笑い声が昼過ぎの街に響いた。

裏口に着くと、翔平はまたひとしきりもごもごやった後「飯食ったらでいいから、河原で待ってる。」と言い残して走って行ってしまった。

今朝と同じように音をできるだけたてずに鍵を開けて中に入った。冷たい廊下を足を滑らせるようにして進み、階段を上って自室のふすまを開いた。


「……腹減った。」


かばんを投げ出して横になり、何週間か前のジャンプの背表紙をぼんやり眺める。

今更何の話だろう。翔平の出発日は明日で、春休みからもう練習が始まると聞いていた。
まるで少女漫画の告白シーンみたいな発言にまだびっくりしているらしい。でも不思議と気持ち悪いとは思わなかった。

小学生からの付き合いだと、あらゆることに慣れが出てくる気がする。それでも、明日からはそんなこと関係なくなる。翔平は俺の隣からいなくなる。

朝と比べると日が昇ってきて、畳は暖かく俵の香りがした。俺は目を閉じて意識を引きずられる感覚に身を委ねた。



    ○



下にしていた左肩が痛むことに気づいて、目を開けた。もう一度眠りたいという欲に包まれそうになったところで、飛び起きた。

今何時だ。

窓から差し込む日差しは橙色に近い。かばんにつっこんだままの携帯を引っ張り出してメールをチェックする。
遊びの誘いに混じって翔平からのメールがないか何度も見返したが、昨夜待ち合わせの約束をした一通が最後だった。


「あーもう、だら! いじっかしい!」


鍵も閉めずに飛び出して、橋の方向に走った。観光客をよけ、芸妓さんにぶつかりそうになりながら、次々に角を曲がって近道を抜けて走りに走った。

大橋のたもとの階段から河原に下りる。見渡しても翔平の姿は見えず、俺はとりあえず上流に向かって行った。
向こうに小さな木製の橋が見えてきた。俺は橋の下で立ち止まってこのまま進むか、大橋の反対側に戻るかを考えた。

そこに「おーい! 凛太朗!」と頭上から声がかかってバッと顔を上げた。喉がしまって呼吸があがっている。
翔平が川沿いの道からこっちに向かって手を振っている。桜で有名なこの川で特に大きな木の下だ。

俺は下りてきたときと同じように橋の横にある階段から翔平の元へ向かった。


「もう来んのかと思った。」

「……ほんとごめん。」


翔平は見たらわかったからもういいわ、と言って笑った。
俺も情けなく笑い返して、息が落ち着くのを待った。


「俺が来るまで何しとったん。」

「橋渡ったりこの辺歩いたり。」

「携帯、連絡くれれば……、」

「凛太朗携帯鳴ったくらいで起きるかわからんし。それに、別に来てくれんかったらそれでもよかってんて。」

「……なんか話あるんか?」


俺から切り出すと、翔平は気まずそうに目を逸らしたが、笑顔は残したままだった。
俺が隣に並んだタイミングで、翔平は口を開いた。


「なんか、寂しいかなって思って。」


うわ、こいつ、俺が言えんかったことを軽々と。俺は目を見開いた。
不意に心臓がドクドクと脈打ち始めた。さっきの息があがっているのとは全くの別物だ。


「俺も寂しいわっ。」

「え?」

「俺の方がお前より寂しいに決まっとるがいね! 翔平はここを出てくだけやけどな、俺はお前に残されるんや! 翔平がいつ帰ってくるのかわからんのをずーっと待たんねんて!」


以前は、これからもずっと一緒に、この街で生きていくんだと根拠なく信じていた。
そんな考えが、1年前になるとうっすらもやがかかったように息を潜めていった。


「寂しいよ。俺は、翔平と離れたくない……、」

「凛太朗、泣かんといてや。」

「……んん、くそ、泣いとらんわ。だら。翔平のだらぶち。」

「だらぶちは言い過ぎやろ。」


翔平は、はーっと息をついて肩を寄せてきた。


「凛太朗は俺のこと大好きやなあ。」

「はっ!? 何言っとるんお前頭おかしくなったんか!」

「俺も凛太朗のこと大好きや。」


心臓が大きく鳴った。同時に胸がじんわりあったかくなって、涙が溢れてきた。


「なんなん翔平……お前ホモだったんか。」

「ははっ、ほーやな。ホモかも。」


軽いわお前……とまたべそをかき始めた俺の背中をぽんぽんと叩いて、翔平は言った。


「今日まで、俺あんまり考えんようにしとってんけど、凛太朗と離れるってつらいなーって、式の途中凛太朗の顔見たら思ってん。凛太朗と離れなくない、どこも行きたくない、このままずっと一緒にいたいって、思ったわ。」


言われて、俺は泣きながらもぴんときた。


「……それで、お前あんな顔しとったんか。」

「あんな顔ってなんや?」

「絶対教えん。」


俺は自分がホモなのかわからなかったが、翔平のことが大好きっていうのは認めざるを得ないだろう。

夕日は急速に沈みつつあり、山の裾に滲むように燃えていた。


「翔平、絶対メールしろよ。電話でもいいから、こっち帰ってくるときは絶対俺に教えろよ。」

「うん。そんな心配せんでも教えるって。ねえ泣いとらんで、上見んか。桜。」

「っせえな。誰のせいだと思っとるん。」


頬を擦ってから顔を上げた。
黒々とした枝に光が溶けて一層艶めいて見える。柔らかな薄桃色の花びらを透かしてオレンジ色の日が暮れていた。

何か言おうとした瞬間、目の前が急に暗くなった。


――ぴんぴんはねた毛先のすべてに、オレンジ色の光が留まっていた。
だら、桜見ろっつったって自分で見えなくしてどうすんだ。



俺はゆっくり目を閉じた。





※作中で使用されている方言は石川県金沢市、またその近郊で話されている金沢弁というものです。

私は金沢の出身ではありませんが、多少馴染みがあるのとその響きに惹かれて今回作中に使わせていただきました。正しい使用法ではないかもしれませんが、そこは目を瞑ってくだされば幸いです。

おまけ程度に解説させていただきますと、「なーん」はいやいや、など否定のニュアンスで、「だら」というのは馬鹿、まぬけ、「いじっかしい」というのは煩わしい、うざったるい、「だらぶち」は馬鹿な人といった意味になります。「ほ」の部分は「そ」に置き換えると分かり易いかもしれません。