あの後、武蔵野は見事に勝利を収めて、4回戦に駒を進めた。その途中でタカヤ君の過去なんかも聞いて、申し訳なくなった。
野球部の面々と別れ、帰ろうと球場を出たら、偶然ハルとアキに会った。目が合ったが、反射で逸らしてしまった。最低だ。とりあえず「おめでとう、お疲れ様」と言って、その場は逃れた。時間に余裕も無さそうだったので、あの話は帰ってきてからにしよう、とも言った。ハルはどこからどう見ても不機嫌だった。
話をしたら、ハルは怒るだろう。アキは分からないけれど、ハルは確実に怒る。あの時でさえ怒っていたのだし、あれ以上機嫌を悪くさせてしまったら、殴られるかも知れない。それも承知の上だ。悪いのは私だから、何も出来ない。
帰ってきて、私は即座に荷物を置き、風呂場に直行した。鏡を見たら、腕が少しと、鼻の頭、頬の上の方が日焼けしていた。シャワーで汗を洗い流しているとき、脛と足の甲も日に焼けていることに気がついた。あんなに日焼け止めを塗ったのに、と少し悔しくなった。
風呂から出て、母が置いて行った昼食を食べた。チーズとハムとレタスのサンドイッチだった。なぜか3口くらいで喉を通らなくなった。それからテレビを少し見て、寝た。次に気がついたときには、もう時刻は18時過ぎで、母が帰宅していた。夕飯の支度を手伝った後、自分の部屋のベッドに座り、学校から持って帰ってきていたマウスピースを吹いていた。自然と春休みを想起させた。とてつもなく虚しくなる。
ケータイのメールを確認したら、ハルとアキから1通ずつメールが来ていた。内容は2通とも同じで、受信したのはついさっきだった。着信音はマナーモードにしてあるために鳴らず、しかもマウスピースの音でかき消されてしまって、気づかなかったらしい。
少しの間、腰が浮かなかった。行きたくなかった。色々な思いが交錯して、泣き出したくなった。投げ出したくなった。ひどく卑屈になった。
それでも、行かなくてはならない。
約束してしまったから。
なんとか自分を奮い立たせ、鉛でも仕込んであるのではないかというくらい重い腰を上げた。
近くに置いてあった櫛で髪をとかし、洗面所で口をゆすいでからジャージ上下という適当な格好のまま、外へ飛び出した。出てすぐのところで、背の高い男がケータイをむにむにといじくっている。


「ハル」


私の言葉に男がくるりと振り向いて、こちらを見た。


「行くぞ」


手を握られ、歩き出す。中学の頃に握ってそれっきりだったが、前よりも大きく、骨ばっていた。
エレベーターに乗ってアキの家のある階で下りると、すぐそこにアキが立っていた。私は某然と立っているアキの手を握った。
ハルはぐいぐいと私たちを引っ張る。急いているのだろう。
階段で1階まで下りて、私たちが住んでいるマンションの隣にある小さな公園に入った。電灯が一つしか無いために薄暗く、不気味で、こんな時間だから人も居ない。ハルは私の手を離し、対峙する。次第に指の力が抜けて行って、アキの手も離れた。
この時点で、私の心は折れかけていた。手が離れた瞬間、先ほどより強い虚無感、そして孤独感に支配されていた。


「何でニシウラなんかにしたの」


暫く続いた静寂を破ったのはハルだった。
喉がきゅっと音を立てる。手汗もかいている。
ハルの目は私を射止めて離さない。私もこの時ばかりは逸らせなかった。
答えない間、ハルはずっと私を見ていた。せっかちなのに、待っていてくれている。本当は今にでも吐き出させたいに違いない。それなのに、待ってくれているのだ。
球場で約束してしまったし、言わなければいけない。
けれど、絶対に嫌われる。
ハルに嫌われるのは、イヤだ。
他の人に嫌われても大丈夫…というワケでもないが、ハルとアキに嫌われるのだけは、絶対にイヤだった。
自分に非があるのに、我儘だ。分かっている。
私は一度、小さく深呼吸をして、口を開いた。


「ハルとアキから、離れたかった」


少しの沈黙の後、頭に鈍痛が走った。
痛さのあまり、顔を上げると、若干の明かりだけでも分かるくらい、イライラしているハルが居て、「このジコチューバカ女!」と叫んだ。自分も憤ってしまい、「ハルにだけは言われたくないんだけど!」と大声を出してしまった。


「ちょっと、やめろって!」


止めに入るアキを押し退け、ハルは私の肩を鷲掴みにして睨みつけた。
覚悟していたとはいえ、彼が怒ると怖い。身体が強張って動かない。


「なに、お前約束忘れたの?」
「忘れるワケ無いでしょ!」
「は!?ソレなのに武蔵野来なかったんかよ!」
「そう、だよ」


アキに後ろに引っ張られ、ハルと距離をとった。胸の中がいっぱいになってしまい、今にも涙が溢れそうだった。私を差し置いて2人で口論しているが、それも頭に入らない。
これから、どうなってしまうのだろう。
少なくとも、今までの関係ではいられないのだろう。
2人との距離はどんどん開いて、いつの間にか彼らの頭の中から、私の存在なんて消えてしまうのだろう。
言わなければ良かったのかもしれない。けれど、いずれ言わなければならない時が来る事は分かっていた。それがたまたま今日だっただけだ。
アキはハルと口論をしながらも、私の背中をさすってくれている。なぜ裏切り者に気を利かせてくれるのだろう。分からない。同情なんてしてくれなくていいのに。


「何とも思わねーのかよお前は!」
「そりゃ、流石に色々思ったけど!昴が自分で決めた事にオレはなんも言わないよ!」


堪えていた涙が一粒こぼれた。


「もっとちゃんとした理由があるんだろうし、そもそもオレらに決定権なんてないだろ」


冷たい風が吹いた。一瞬にして静かになった公園は、周りから隔離されているかのようにさえ思えた。
ハルは一度舌打ちをして、近くにあったベンチに乱暴に腰をかけた。ため息をついて、それから、わりぃ、と静かに言った。
ハルが謝ることなんて1つもないのに、謝らせてしまった。
アキも怒っているはずなのに、庇わせてしまった。
情けない。自分の決断ひとつで、2人をこんな気持ちにさせてしまった自分が憎たらしい。
それでも、あの決断からは逃れられなかった。
彼らの元へは行けなかった。
どうしようもないくらいに、虚しくなる。罪悪感で胸が痛い。ぼろぼろと落ちていく涙は、私の中の悪いものを、ひとつも連れて行ってくれない。


「ごめんなさい」


震えた声は、空気にすぅと吸い込まれて行く。返事は無い。
最初に帰ろう、と言ったのはアキだった。私たちは無言で、歩調をバラバラに歩き始めた。