朝7時頃に学校に着くと、離れにあるグラウンドからきーんという金属バットの気持ちいい音が聞こえてきた。夏の風物詩、と言っても過言ではないと思う。もくもくとした雲と、青空と、緑色のフェンス。なぜだろう、なんとも野球っぽい。つい自転車から降りる。
ついに夏がやってきた。
吹奏隊でやる曲も決まり、浜田君率いる応援団との合同練習もした。準備は万端だ。楽しみで今から身体が疼いてしまう。
しかし、後ろめたい気持ち胸の中で蠢いていた。どうしても脳裏に焼きついて離れない、2人のことだった。
未だ進展はない。どうにかしなければと思っていた筈なのに、既に2ヶ月が経ってしまった。これからどうすればいいんだろうと、頭の中でいろいろな場面を想像しても、すべて悪い方へ向かってしまう。1度、深くため息を吐いたところで、遠くから名前を呼ばれたような気がした。そちらに向くと、先には千代が居た。グラウンドの入り口の前で、眠たそうに両手で1つのジャグを持ってふらふらしている。おはようと挨拶をすると、元気に返ってきた。自転車を押しながら千代の方へ駆ける。グラウンドの中では、野球部のみんなの声が飛び交っている。
青春だなあ。


「朝っぱらから大変だね」
「あはは、もー慣れたよ」


にこにこしながら言う千代に、素直に感心した。頼もしいマネージャーだ。
大会も目前だし、力も入っているのだろう。私も頑張らなければ、と心の中でガッツポーズをする。
辺りを見回していたら志賀先生と目が合ってしまったため、軽く一礼した。応援よろしく、とお二方にニコニコと言われてしまったため、言葉を詰まらせながらガンバリマスと返す。なんだか居づらくなってしまったのと、時間が押しているのもあって、千代に部活の朝練に遅れてしまうという旨を伝えた。謝ろうとする千代を牽制し、私は再び自転車に跨った。また後で、と言いながら、ペダルを漕ぐ。千代はひらひらと手を振っている。誰かと付き合っているのだろうか。あんなに健気で可愛いのだ、千代に好意を抱いている男子が1人や2人居てもおかしくない。
そういえば、武蔵野にもマネージャーが居た。遠くから見てもわかる可愛さに加え、胸も大きかった。今の年代の男子はもうそれは、釘づけなのではないか。それに、ハルにもアキにもようやく彼女が出来たかもしれない。私にばかり構ってくれていた中学時代とは違う。
私は、間違えていない。
自転車を駐輪場に止め、校舎に向かって歩き始めた。時間確認も兼ねてケータイを開くと、メールを一通、受信し始める。直後、受信音の代わりにバイブが鳴り、手中が震えた。
表示された差出人を見、硬直した。
メールを開く。改行されておらず、真っ黒で、生粋の日本人のくせに若干たどたどしい文。
ハルのメールだ。
嬉しさに頬を緩ませたが、間髪を入れずに罪悪感に襲われた。
内容は、今週末から始まる夏の大会のことだった。土曜に開会式、日曜に試合があるから見に来ないか、という旨のものである。
冷や汗をかいた。
見に行きたい。
しかし、合わせる顔などない。私はケータイをそっと閉じる。今すぐに返信する事は不可能だ。
前の事を誤らなければ、そしてその理由を話さなければ2人には会えない。メールの返信も躊躇われる。それに、謝罪の言葉は、まだ頭の中でまとまっていなかった。
ちらりと駐輪場に掛けてある時計の時間を見、身の毛がよだった。マズイ、と一度呟いてからケータイをポケットに入れ、部室へ一目散に走った。


***


「ハイ、じゃあ隣のヤツと交換」


昼休み明けの、5時間目先生の声同時にそこらからダメだ、とかツカレタ、とかいう声が聞こえた。私の心の声を代弁してくれているかのようだった。
席替えしてから憂鬱な事と言えば、最初に挙げられるのは数学の時間だった。抜き打ちで前回の授業内容の小テストが行われるのだが、数学が壊滅的に苦手なために50点満点のテストは毎回2割を取れるか否かといった所である。それだけならばいいのだが、隣の席は数学が得意なタカヤ君なのだ。見せたく無いけれども、仕方なく交換した。
彼の回答と先生が黒板に書き出した答えを見合わせながら、丸付けをしていく。ふと隣を見やると、彼は眠たそうに丸つけをしている。と言っても、殆ど間違っているから、罰点ばかりだ。


「マジで数学ニガテなんだな」


騒がしい教室で、タカヤ君は答案を私に差し出しながら小さく呟いた。苦笑しつつそれを受け取り、こちらも答案を差し出す。そして彼から受け取ったそれを私は見ず、静かに折り畳み、机の中に仕舞った。
授業はいつも通り平坦に進んで行く。板書をしてから顔を上げ、辺りを見回すと、寝ている人がちらほら見受けられた。私も寝たいけれど、寝たら成績がマズイ。
うつろになりながら今朝の出来事を掘り返していた。
なんで、メールをくれたのだろうか。
怒っているんじゃないのか。


「オイ」


タカヤ君の一言で、我に帰った。ぱちくりしながら隣を見ると、彼は訝しげに私を睨みつけていた。黒板には全く意味不明な数式が書いてあって困惑した。


「ハイ!」
「なにボーっとしてんだよ」
「え、ウン、別に、ナンモナイ」
「そ。お前さっきから指名されてんぞ」


顔から血の気が引いていく感覚。先生はこちらに微笑みを向けていた。タカヤ君の助言を受けつつ問題を解いて、何とか難を乗り越えた。助かった。彼に深くお辞儀をした。
授業が終わり、業間休みになった。皆それぞれにわいわい騒いでいるが、若干何名かは机に顔を伏せている。タカヤ君はチャイムがなったら起こしてくれ、と私に言い、彼らの仲間入りを果たした。
私は今朝のメールを読み返していた。ハルなりに一生懸命考えてくれた言葉だという事はとてもよく分かる。だから余計に辛い。
空は突き抜けたように青く、遠くには入道雲が浮かんでいた。窓から入ってくるじとりとした風が、私の肌を撫でていく。まるであの約束をした日のような日だ。胸が握りつぶされそうだった。
チャイムが鳴る少し前に、タカヤ君の肩を叩いて起こした。彼は目を擦ってから私の顔を見るなり、眉間にしわを寄せた。

「早く仲直りすればいいんじゃねェの」
「エッ、な、なに急に」
「ケンカでもしたんだろ。榛名と」

驚いて言葉が出なかった。
いつから気づいていたのだろう。聞こうと声を掛けた瞬間に始業のチャイムが鳴り、かき消されてしまった。彼は前を向いて、こちらを見ない。聞くタイミングを完全に逃した、と落ち込んだ。




なんとなく検討は付いていた。
席替えしてからは溜息をやたら吐く、考え事をしている、数学の小テストをすべて間違える、極め付けに、榛名の話題を極端に避けるのだ。春大予選の日はまんざらでもなさそうに話していたのに。
しかし、どういう理由で喧嘩をしているのか。まるで兄妹のような仲だったのはシニア時代に思い知っているから、少しだけ気になった。
先ほどから何度もこちらに視線を向けてくるけれども、適当にかわしていた。どうして分かったの、とでも聞くつもりだろう。あまりにも鬱陶しいので、先生が板書をしつつ話始めた隙に小声でナニと聞くと、彼女はびくりと肩を跳ねさせ、予想通りの質問をしてきた。

「私、ハル……ナ先輩とケンカしてるなんて、一言も言ってないよね?」

こちらが一度首肯すると、彼女は口をあんぐり開け、納得のいかなそうな顔をして「そっか」と言った。少し笑いそうになった。
授業中、間宮は板書をノートに取りながらも悩んでいたように思う。やたら首を傾げていたし、ぼうっとしていた。普段からこんな感じではあるが、今日は妙に様子がおかしいから、昨晩か今朝あたりに榛名と何かあったのだろう。
そんなこんなで授業が終わる。隣に目を遣ると、間宮がこちらを凝視していた。真剣な目つきで、少し驚いた。なんとなく、デジャヴを覚える。

「私さ、ずっと前に3人で甲子園に行こうって約束したの」

こそこそと話しているにも関わらず、声のトーンが低いというのがわかる。瞼に睫の影が落ちる。
3人で、という事はたぶん、間宮は武蔵野に行こうとしていた。榛名ともう一人を追って武蔵野に行き、甲子園の舞台へ共に立とうと考えていたのだろう。
けれども、間宮は西浦に居る。たぶん、ケンカの理由はそれだ。榛名は短気だから怒鳴っただろう。相手が女でしかも幼馴染だから、分からないが、たぶんそうだ。
がやつく教室の中でも、間宮の声ははっきりと聞こえた。まるでオレと間宮以外にこの教室には誰も存在していないのではないか、と思ってしまうくらいに、はっきりと聞こえた。息遣いが聞こえる。1メートルは距離があるのに、とても至近距離に聞こえた。胸の辺りがざわつく。

「けど、2人なら行けると思って」

少し震えた声は、オレの耳を劈いた。
2人ならって、どういう意味だよ。3人で甲子園に行きたかったんだろうが。
聞こうと思った矢先に教室のドアが開き、担任が入ってきた。これからショートホームルームが始まる。たった数分で終わることなのに、もどかしいままで居なければいけないのは憂鬱だった。