色見えで、うつろふものは




彼のために、なるのなら。
彼の支えに、なるのなら。
例え彼がそれを望んでいなくても、許さなくても。
鬼になろうが化け物になろうが、構わないとさえ思った。

そう誓ったあの日から、今。
ただただがむしゃらに走るばかりで、気付けば随分と遠くに来たようで。胸を張って隣に立つには、歪み過ぎてしまったけれど。
構わない、そう呟いてまた走り出せばいい、その筈なのに。

そっと閉じた瞼の裏に焼き付いた銀色が、眩し過ぎて。








「何、もう下がるのか。外は冷えるだろう」
「……いえ、これから警備がありますので」
男の残滓を拭いおざなりにスカーフを整えて、逃げるように邸から外に出た。豪奢な扉を開けると、切り裂くような空気の冷たさに思わず肩が震える。既に凍えそうな程に身体が冷えきっていたが、ちょうど良い。寝呆けた頭を醒まそうと、土方はいやに重い首を緩く振った。

江戸の中心部からやや離れた所に位置する、その幕臣の邸から警備場所である神社までの地図を脳内に描きながら、土方は深々と嘆息した。どれだけ懸命に走っても、優に一時間はかかるだろう。煙草を吸ってくる、そう嘯いてから少なくとも数時間経過している現在、今更十分も三十分も何も変わらないだろうけれど。それでも、仕事中に勝手に抜け出した自分のことを心から心配しているであろう上司と、口煩い己が不在なのを良い事に爽やかに面倒を起こしているであろうあのサボり魔を思えばキリキリと胃が痛む。

早く、行かねぇと。
気ばかりが焦って、背中につう、と汗が流れるのを感じた。タクシーを拾おうにも、生憎懐には何とか煙草一箱買える程の小銭しか持ち合わせてない。昼間散々手のかかる部下から奢らされ、更にパトロールと称した破壊活動の即席の修理費で全て飛んでいった。あのデストロイヤー、と恨んでみても浮かんでくるのは小憎たらしい笑みを浮かべたあいつの飄々とした姿で、もう一つ深々と息を溢した。

「………っ、くそ……」
ぼんやりとした頭でもう走るしかない、と足の裏に力を籠めようとするのに、頭がグラリと傾く。前へ前へ、と足掻く両足とは裏腹に、冷えきったコンクリートの壁にペタリと背中を縫い付けた。
視界が、揺れる。冷たい、寒い、寒い。

「クソっ………情けねぇ…」

たった、数時間。
自らの地位と権力をこれ見よがしにちらつかせる男のご機嫌取りをすれば良い。平生狡猾な笑みを薄く浮かべ、家柄やポストを鼻に掛けるばかりの器量は三下。その傲慢な態度は鼻持ちならないが、たいして頭も切れないから多少煽てて感じてる振りでもしていれば甚く満足する、それだけだ。

女でもあるまいし、今更貞操観念なんて不要だろう。例え組の為だろうが、仲間に褒められることでも許されるものでもない、そんな事はとうの昔に知っている。
けれど、俺は。それが真選組の、あの人の夢の為になるなら、何時だってこの身体を差し出すと誓ったから。こんな身体が役に立てるのなら、何時だって。

なのに、それだけなのに、きつく閉じた瞼の裏に銀色を思い出してしまえば、もう駄目だった。ずっと上手くやり過ごして来た筈のその時間が、苦痛でならなかった。
身体中をまさぐる汗ばんだ掌の嫌悪感が酷くなって、払いのければ忽ち不機嫌そうに口唇を歪めた男に一層手酷く扱われる。今日とて、隊服の下には目を背けたくなるくらいには痣や鬱血痕が残っているに違いない。

ああ、寒い。
寒くて堪らない。
幾らジャケットの裾を握り締めて丸まってもカタカタと歯の根が噛み合わない、震えが止まらない。
こんな情けない姿を目の当たりにされてはならない、解ってる、解ってるのに、もう立ち上がる気力さえ残っていないのだろうか。

煙草、煙草を吸えば幾らかマシになる、そう思っても懐には潰れた空箱しか無くて。クシャリ、と己の掌で皺を寄せて丸まる姿は、今の俺にそっくりだった。

「…ちっ…キショウ…………」

もうすぐ、年が明けるのだろう。
ぼんやりと遠くから耳に入る、賑やかな喧騒が酷く遠い世界の様相みたいで。
ああ、急がねぇと、早く、早く。
早く、戻らなきゃ。
そんなこたぁ、解りきってる。
解って、るけれど。

何だか、疲れてしまった。
いつの間にか寂れた裏路地にへたりと座り込んでいた身体は、指先が僅かに震えるばかりで、ピクリとも意志の儘に動かせない。
脳からの信号は確かにシナプスを抜けているのに、首から下は他人の身体のようで、まるで思い通りにならない。
暫く腕に力を籠めて藻掻こうとするものの、痙攣のように指先が引き攣るのさえ止められなかった。

不味い、この身を切るような寒空の下、こんな格好で寝こけていたら流石に凍死するかもしれない。
隊士達には大概気合いで何とかしろなんてほざいてきたけれど、根性論ではどうにも出来ないことが世の中多々あるものだ。
例えば、今みたいな。
ああ、こんなに弱気になるなんて己らしくない。らしくないったららしくない。武士たるものまず気概から─────止めよう、疲れるだけだ。

すまねぇ、近藤さん。
ふと脳裏に浮かんだ後ろ姿に、ただ無意識の内に謝罪していた。
何に対して、かは言えなかったけれど。
瞼をきつく、きつく瞑って広がる一面の闇に浮かぶのは、ただ真っ直ぐな後ろ姿。自分と同じ隊服───いや、違う。皺で縒れ、埃に塗れ薄汚れた自分のとは似ても似つかない、ピンと張った漆黒の隊服。
己よりやや高い背丈は雲衝くばかりに見えて、如法暗夜をはっと照らすようなその威風凛然とした姿は、まさに大将のそれだった。
「……………近藤、さん」
背中に震える声で呼び立てても、振り向くことは無くて。
「総、悟」
不意に現れた栗色に、小さくただ小さく呟く。無言で近藤の隣に並んだ彼の背中は、いつの間にかこんなにも逞しくなっていた。
原田、山崎、二人また三人と増えていく見知った背中。気付けば、数えきれないくらいに沢山並んでいた。
真っ直ぐ、ただ真っ直ぐ。

ああ、自分は何時から此処にいるのだろう。あの真っ直ぐな後ろ姿の中に入るには、自分は少し汚れ過ぎた。
後悔はしていない、ただ己が唯一の大将の為なら、組の為なら。
その一心で、此処にいるのだから。

ただ、手をどんなに伸ばしても僅かに足りない、その距離が少し寂しい、それだけだ。

あと数十分も経てば年も明ける、だからほんのりセンチメンタルな気分に染まっているのだろう。

だから、少しだけ休もう。
次、近藤達と顔を合わせるときには、普段通りの自分でいられるように。

固く瞳を閉じたまま、混濁した意識の中に残ったのは、
「─────────土方」
振り向き様に己の名を口にして綺麗に笑った、暗闇を彩う銀色だった。






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