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 滲む




 世界は、いつだって色を変えるの。その時々にあった色を見つけては宿らせて、わたしたちの傍にいる。晴れの日は橙でしょう。雨は青かな。風は緑。それから、ああそう、あなたはね。――、そう伝えたら、あなたは笑った。

*

「そんなに水を含んで描いたら、滲むよ」
「いいのよ」
「なにが?」

 君は答えなかった。
 床に画用紙を広げて、小学校の時に使っていた絵の具セットを引っ張り出しては並べて。バケツたっぷりに入れられた水に色が広がる様を見ながら、僕はただ、言葉を紡いでいた。君はといえば、楽しそうに筆を走らせて何かを描いている。花といわれれば花に見えるし、空といわれれば空に見えるし。それは君だけの世界で、僕にはちょっと、理解しがたかった。

「ほうら、千尋も描いて」
「いいけど、ねえ、滲んでるよ」

 ――いいのよ。
 まただ。なにがだろう。滲んでしまったら色が混ざり合ってしまうだろうに。そこまで考えて、ああそうか、と思う。顔をあげれば君と目が合う。その姿は本当に楽しそうで、どこまでもまっすぐだった。もしかしたら君と僕では、世界の見え方が違うのかもしれない。そう気付いたのはずいぶん前のこと。だからこそなおさら、その世界が気になるのだ。

「ねぇ、紗和、世界はどんな色をしているの」
「え?」
「だから、君の世界はどんな色をしているの?」

 ずい、と顔を近づけて聞けば。ふふ、と君は上品に笑う。それから立ち上がり、画用紙や僕の周りを一周してはまた床に座った。それが何を意味したのかは、良く分からないけれど。

「世界は、いつだって色を変えるの。その時々にあった色を見つけては宿らせて、わたしたちの傍にいる。晴れの日は橙でしょう。雨は青かな。風は緑ね」


 そうやって世界を語る彼女は、いつもよりひときわ優しく、綺麗で、なんだか少し遠くに感じる。それでもその目はちゃんと僕を見ている。不思議なことに、たっだそれだけで安心感が芽生える。
 僕は君に手を伸ばす、君は僕に手を差し伸べる。いいの。いいよ。それを聞いたら、手繰り寄せるように君の腕を引き、抱きしめていた。その勢いでバケツが倒れ、水がこぼれる。視界の隅で、乾き切らない絵の具が、君の服に付着していた。でもそんなのどうでもよくて、僕は君の背に手を回し、君は僕の肩に顎を乗せた。

「それでね、あなたはきっと白だわ。私がそこに色を描くの」
「……そう」

 くすり、と笑みがこぼれた。君が居なくては僕は色を知ることはできない。僕が居なくてはきみは色を広げることはできない。つまりは、二人で一つ、ということだろう? ああ、このセリフ、思う分にはいいんだろうけど、口に出すのはやめておこう。なんだか笑われそうだ。


「ねえ、滲んだっていいのよ」
「それが紗和の、僕たちの世界なら?」
「ええ、そう。だってこんなに世界は広いの」
「――そうだね」
「……怖い?」
「うん」

 すこしだけ。ほんのすこしだけ。何がかは分からないけれど、ほんの少しだけ抱く恐怖。君は背に回した腕を少しだけ解き、ゆっくりと微笑んだ。

「それでいいのよ。それでいいの」

 子供をあやすような声だ。実際、僕らはまだ子供なんだろう。鼻の奥がつん、として少しだけ視界がぼやけた。君は、笑みを消さないまま僕を見ていた。それから左の瞼にそっと、唇を寄せた。

 ――いいのよ。例え涙で世界が滲んだとしても、どれだけ世界の汚さに絶望したとしても。それでいいのよ。自分の非力さを恥ずかしがらないで。一人じゃ不安だから、いっしょにいるんでしょう。一緒に歩んでいくための足でしょう。逸れない様に繋ぐための手でしょう。

 そう言って君はまた、僕を抱きしめる。ゆっくりでいいのよ、背伸びしなくてもいいの。そう囁く君の声を、僕は静かに聞いていた。まだ君の色を受け止めるには、不安定な白かもしれない。けれど僕は君の色が、君が好きだよ。だから一緒に、歩んでいこう。




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