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 かわいいね、なんて




 ――優しさが仇になるよ。
 そういったのは確か、あいつだったように思う。今思えば、言い得て妙だな、なんて。そんな呑気に考えていられる状況でもないんだけれど、そうでもしないと、落ちつかない。完全に、ペースが乱れている。
 あー、なんだかなあ。なんて考えても、もう戻れない事ぐらい知っていた。だからただ静かに、シャワールームに足を運んでいる彼女を待っているとしよう。ここで笑っているほど、俺も馬鹿じゃない。



*



 それは何気ない一言だった。
 俺にしても、さつきちゃんにしても。なんとなく、ただ何となく繰り返される会話の一部に過ぎなかった。
 場所は二十階。いつも通りの喧噪にもまれて、溺れて、呑まれて。染みついた消毒液の臭いが、どうにも気持ちいい。そんな中で彼女は、「そういえば」と口火を切った。


「この前、お母さんに『さつきが好きそうだから』って、新しい洋服を貰ったんです。そしたら、その洋服、背中にファスナーがついてて。わたし、ファスナーひとりで閉められないんで、お蔵入りになっちゃいました」
「え。じゃあ俺閉めようか?」

 ちょっと寂しそうに笑いながら、それでもごく自然に言ってのける彼女。だからこそこちらも普通に返したわけだけど、それがいけなかったんだと、今になって思う。まぁその時はそんな事、思ってもいなかったわけで。

「え」
「え?」

 驚いたように声を上げるさつきちゃんを見て、一瞬疑問を覚え、そして理解する。きっと一瞬よりも早く。覚えたのは、焦燥。

「あ、いや……」

 なんて、弁解に入ろうとする時点でもう駄目なんだろう。さて、どうするべきか。自分の発言には責任を持ちましょうなんて、全く笑えやしない。そこから数秒の沈黙。何も言えなくなって、居た堪れなくなって。窺うように彼女を見たら、ほんのりと頬を色づけ、俯いている。きっと自分もそうなんだろう。こんなところを誰かに見られたら、二十歳を過ぎたいい大人が何をしてるのか、なんて笑われそうだ。


 今の、忘れて。そう言おうと口を開いたけれど、言葉にするのは叶わなかった。代わりに響いたのは、ソプラノ。まごうことなく、さつきちゃんの声だった。――お願いします。と、そう、言った。俺の聴力では微かにしか聞き取れなかったけれど、きっと間違っちゃいない。
 しどろもどろに、必死に。無理をしなくていいよ、と、そう言いたかったけれど、それを俺が言うのはなんだか筋違いな気がして。心の中でそっと、呟くだけにとどめておいた。

「あ、えっと、――はい」

 俺の口からこぼれる言葉も、やたらとぎくしゃくしている。それに輪をかけて敬語とは、何ともまあ、可笑しい事で。ほんともう、やるせないな。場所が場所じゃなかったら、絶対に笑っていた。

「えっと、あの、……じゃあ、部屋、きます、か?」
「…………さつきちゃんが構わないなら」

 そこからの会話、というか彼女を待っている今にいたっても、会話はぎくしゃくとぎくしゃくと、まるでさびついた歯車のように執り行われている。
 そして、亜麻色のワンピースを抱きしめながら、シャワールームに足を運んでいった彼女を待っているわけで。微動だにしない静寂の中で、息を吐いた。変な気遣わせちゃったよなあ。ごめんね、――なんて、言葉にしたらきっと彼女はとぼけるんだろう。


「お待たせしました」

 そうやって静寂を打ち砕く声。一瞬視界がぐらついた気がしたけれど、気のせいだと思いたい。人の部屋で倒れたりなんかしたら洒落になんないし。
 ファスナーを閉めてないから、ずり落ちないように肩を抱いて。それから恥ずかしそうに、笑う。「可愛いね」と、素直に思ったのは、それが事実だからなんだろう。口には出さなかったけれど。

「……あの、じゃあ、おねがいします」
「はい」

 背を向けて立つ彼女は、おかしなほどに華奢で。その一方で、ほのかに香る石鹸の香りが、馬鹿みたいに清々しく思えて。結局何を考えていたのか分からないけど、うん、まあ、仕方ない。つまるところ現実逃避です。
 ゆっくりとファスナーをあげていく。じりじりと、焦がしていくように。途中まで来たところで、あ、と手を止める。それと同時に、さつきちゃんの肩が揺れる。痛みを押し殺したような声が、かすかに響く。髪がファスナーに絡まって、引っ張られている状態だった。ああ、やってしまったな。

「ごめん」
「え、あ、だいじょう、」

 ――だいじょうぶです。彼女が言い終わる前に、「動かないでね」と断っておく。幸い、少しいじればそれなりに被害が少なく髪をほどけるかもしれない。ああ、でも、多少は切れちゃうかもなあ。髪は女の命って言うぐらいだから、怒られてしまうかもしれない。まあ悪いのはこっちだから、仕方ない。

「尚巳さん?」
「え。ああ、ごめん、待って」

 俺の意図が読めないのか、不思議そうなさつきちゃんに苦笑を漏らす。さて、どうしたものか。なんて言っても、次の行動はもう決まっているわけだけど。――ごめんね。そう呟いて、かがむ。その声は今の自分のものではなく、数年前までのそれに近いような冷たさを持っているような気がして、失敗したな、と思う。今はできるだけ、穏やかに話すつもりでいたんだけどなあ。

 それで、なんで謝ったかって言うあれになるわけで。率直に言うと、かがんだことで必然的に距離が近くなったから、だ。勿論、さつきちゃんはいい気分ではないんだろうけど、これぐらいの距離でないとどうにもやりにくいから仕方ない。かと言って、嫌と突き放すことさえも、きっとできない。先に断っておく事は、親切にもとれるけれど、裏返せば姑息としか言いようがない。大人のずるさと言ったところか。
 予想通りに、さつきちゃんの肩に力が入る。ああ、ほんと、ごめんね。――なんて、何処までもずる賢い。

「はい、とれた。ごめんね、少し切れちゃったけど」
「え、あ。……ありがとう、ございます」

 いえ、こちらこそ。
 そう微笑めたのは、俺が自分のペースを取り戻したからか、はたまた此方側に彼女を巻き込んだからなのか。まあ彼女の後ろに立ってるから、それらを察しられる事はないんだろう。正面に立っていれば、雰囲気で読みとってくれたかもわからないが。
 ――さて、用も済んだし、ここらへんでお暇しようか。さもないと余計なことまで口走りそうだ。そう思って足を進めかけたところで、ああ、と思いとどまる。何のために此処まで来たんだか、危うく忘れるところだった。
 かつん、と靴音が響く。かつ、かつ、かつ、と。黒板にチョークを走らせるようなリズムで、淡々と。そして、瞳に映るのは。亜麻色のワンピースに身を包んだ彼女。閉じられた瞼の裏で、はたして何をおもうのか。ねえ、今度教えてよ。

「――可愛いね」

 良く似合ってるよ。なんて、何処までも陳腐で、甘いだけの台詞。さつきちゃんの次の言葉を待つ前に、部屋を出る。
 でもまあ、いくら甘いだけの台詞と言ったって、嘘は一つもないんだから構わないだろう?






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