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 ぎゅっぱ

 気持ちが悪いと叫びたかった。
 例えば、今日の空の色とか。人混みだとか。いつも通りにあるはずのそれが、もうなにもかも、気持ち悪い。
 ――でも。
 何より気持ち悪いのは、この状況で笑えたわたしなんだろう。

 手に残った感触を、ななと先輩の表情を、その命の重さを、わたしは、確かに覚えているのに。

「――ちか?」

 その声が誰のものかなんて、振り返らなくても分かる。どんな表情をしてるかさえ、容易に想像できるのに。
 おねがいどうか。どうか、きらいになって。そして突き放せばいい、さっきわたしがしたよりも惨く。
 それなのに、振り返った時にはもう、笑えなかったのはどうして。



 それから数日してななと先輩が包帯塗れの姿でいたのを何度か見かけた。カチリと合わさる視線は、何よりも。それでもそれまでと変わらず言葉を交わした。何か変化があったとするなら、俗に言う、嫌がらせ、だろうか。わたしが彼女を突き落としたのが何よりの発端で、その後は靴の中に画鋲が入っていたりとか、体操服がなんやかんやなっていたりだとか。わたしが一つ大きな爆弾を落とすタイプならば、ななと先輩は小さなことを少しずつ積み重ねていくように。

 そして、また、階段の踊り場にて。

「あ、ちかちゃんだー」
「……あ。こんにちは」
「久しぶりだねっ、ねえ見て! ななねー、何か知らないけど階段から落ちちゃって? もー、ちょーいたいの!」
「わあ大変。わたしも靴に画鋲入ってたんですー」

 えー! なにそれぇ、やだあ、なんて女子特有の甲高い声が耳を劈く。ななと先輩はいつだって茶化すような表情で、声で、わたしを見る。それは、いつからだろう。どうして、誰の為に、そうなったんだろう。いつだって、疑問ばっかりだ。答えはとうに知っているくせに。

「ねえ、ちかちゃん」
「はい?」
「ななね、そうゆうお節介は、いらないんだよね」
「……知ってます」

 まるで内緒話をするみたいに、今度は静かな声で。
 知ってる。そんな事、知ってる。そしてあなたは、わたしが情報を話していることを、知ってる。何を何処まで、とかそこまで細かいことは分からないだろうけれど、それでも。だからこそもうぐちゃぐちゃで、誰が被害者で誰が加害者なのかもわからなくて。
 先輩が少しだけ笑った。諦めたみたいに、慰めるみたいに。つられてわたしも笑う。それは少し前の笑顔に似ていた。

 きっと、大事にしすぎたんだ。

 それ以上はもう何も言わずに、窓越しに空を見ていた。雲に覆われて、白だけが広がっている。
 雨さえ、涙さえ、流れない。
 ちかちゃんじゃあね、と手を振って去っていくななと先輩の後ろ姿を見つめる。風は秋のものに変わっていて、それが少しだけ寂しかった。

「ちか」

 その後ろから、振りかかる声。だけどわたしは振り返らないで、なあにってだけ答える。振り返ったらいけない。できるだけ明るく振舞おうと決めたのだから。それがどれだけ、不自然でも。

「さっき」
「うん。見てたんでしょ」
「……どうして」
「そんなの、わかるでしょ」

 ああ、駄目だ、と思った。背中越しに感じる気配が、少しだけ動く。目の前にある窓の向こうであの二人が寄り添うのが見えた。そして痛感する。どうしようもないくらいお節介だってこと。


「だってちかは、氏瀬くんもななとちゃんも、成島くんも大好きだもの」


 やっと言えた言葉。いつだって行為に隠してきた言葉。認めることが一番だと本当は気づいていたのに。
 振り返った先で、あなたは。



 そして、世界は色を取り戻す。


ぎゅっぱ
(もう一度、その手をとってもいいですか)




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