another main | ナノ

 幸せになるために

 世界を遮断した。そのこと自体に彼自身苦痛は得なかった。
 元々狭い世界だったことを自覚している。ここに来るまでも、そしてこの-13℃という箱庭で暮らすようになってからも。だからこそ彼女――、さつきにはそんな思いをさせたくない。そう思ったのもまた、事実だった。でもそれが叶わぬことだなんてことが分からぬほど、彼も馬鹿ではなかったが。

 キュ、と音を立てて蛇口をひねる。水を含んだ髪はいつもより緑らしさを増している。拭くのさえ面倒に感じたのか、ある程度水を切ってベットに腰掛ける。それでも床に水滴が染みを作り上げていた。
 目を閉じて彼女ことを思う。彼よりもいくつも年下で、華奢な体躯にたくさんのものを背負ったその背中を。


 ――ねえ、さつきちゃん。君はもっと外を知るべきだ。本当ならもっと外に出て、たくさんの人と触れ合って、恋をして。俺なんかよりもっと素敵な人を見つけて、その人に手を引かれて暮らした方が君は幸せなんじゃないかって思うんだ。

 ふいに尚巳の視線は、病室の隅にある、写真の入っていないフォトフレームへと移る。それがどう彼の癪に障ったのかそれを手に取って床へと落とす。ガシャンッッ! と派手な音を立てて硝子が砕け散る。巡回に来ていた看護師がドア越しに「樫村くん? どうしたの?」と声をかけてくる。それには何も答えずにただ眼を伏せた。その表情はいつもの彼のものよりも、格段に余裕のない表情だったように思う。

 ――だから、どうか、きみは。

 抱く考えが理想を押し付けるものでしかないことも分かっているんだろう。だからこそ何も言わないと決めた。

 ベットの横に置いてある篭に目配せをして、空のそれにため息をつく。発作が起きてしまったらしばらく起き上がれないので部屋に持ち込んでいる食料も底をついてしまっているらしい。そうなれば選択肢は一つだが、乗り気ではないのはおそらくいままでの思考のせいだろう。


 仕方ないな、と腰を上げてジッポーをいじる。オイルの匂いにこわばった痛頬が緩み、後ろ向きだった気持ちが晴れる。「樫村くん」とまた声がかかって焦る。それと同時にまだいたのかという笑いも。それから、オイルはさすがにやばかったかと顔をしかめたが、彼が声をかけられた理由はそれではなかったらしい。

「朝食ちゃんと食べてちょうだいね」
「今、朝でしたっけ」
「そうよ。やあねえ」

 そう言って笑った看護師が誰だったのか暫く考えたものの、いっこうに答えが出ないので考えるのをやめた。尚巳が正確に顔と名前を覚えている看護師はただ一人だ。きっと一生忘れないであろう確信さえ抱いている。顔見知りの患者も医者も看護師も個性が強いというのが彼の感想で。


「ああもう、馬鹿だな」

 そんな事はどうでもいいという風に振り切り、声がかかってからやっと部屋を出た。



 食堂にはいって目に映るのは、いつも通りの豪華な料理。これが病院食なのかと笑ってしまえるほどの代物だった。そして料理の先に、見慣れたその華奢な影が。

「……さつきちゃん」

 振り返った彼女に、精いっぱいの優しさで言う。理想をおしつけるのはやめようと決めた。世界を遮断したのはとうの昔で彼自身それに苦痛はなかった、でも。

「話があるんだ」

 世界を遮断したままでは幸せになれない事を知っていた。

 ――一つだけでいい、我儘をきいてくれないか。



prevTOP|next

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -