その一瞬を焼き付けろ | ナノ


カーテンを閉めていても、やはり夏の日差しは朝でも鋭い。目覚ましの時間よりもそれのせいで目が覚めてしまうのはもうここに来てからは当たり前で、やれやれと体を起こしジャージに着替えて部屋を出た。

重い足取りで調理室へと向かい、窓際にかけてあるエプロンを着ける。このエプロンも熱をかなり吸収していたようで、ジャージの上からでもじんわりと熱が伝わって来る。

冷蔵庫の前に貼ってある今日の朝食から夕食までのメニューに目を通し、まずは朝ご飯からと昨日の夜に下ごしらえをしておいた野菜に目をやったところでハッと気が付く。

私、どうしてこんなところにいるのだろう?





「……どういうことだこれは」
「私に聞かれても……」


眉間にもの凄いシワを刻んだ跡部に溜め息を吐かれる。我に返った私が思わず調理室を飛び出したところで、どうやら自主トレで早朝から走って来た帰りの跡部とぶつかったのだ。

目の前に知り合いがいることが嬉しくて、跡部の胸ぐらを掴みここはどこなのか、なぜ私はここにいるのかと聞いたところで跡部は「ハァ? 寝惚けてんのか、金澤」と呆れた顔をした。

寝惚けていたのならば、どんなに良かったか。私の頭からは跡部に命令されて合宿の食事担当としてここにいること、氷帝だけではなく他の学校もいること、そんなものがすっぽり抜けていたのだ。


「俺らのことは覚えてんのか」
「跡部と、宍戸とジローでしょ。青学と立海もいるってことは国光と弦一郎もいるってことだよね」
「うちの二年は?」
「顔は解るけど名前までは……あ、樺地くんだけわかる」
「そうか……」


心当たりは何か無いのかと聞かれるが、全く覚えがない。記憶喪失の定番といえば怪我だけれど、階段から落ちたとか何かがぶつかったのであれば痛みがあってもおかしく無い。けれども体のどこにも痛みはない。

話をしながら何気なく時計に目をやると、とりあえず朝ご飯を作らないと、という使命感が頭の中に湧いた。ここには八月一日に来たと跡部から聞いたけれど、記憶からは抜けていてもどうやら料理を作るという習慣は体が覚えているようだ。


「とりあえず、食事を人数分作ればいいんだよね?」
「馬鹿いってんじゃねぇ、今日はゆっくり休んで原因を探すことだな」
「でも、どこも痛いとか無いし……それにこの下ごしらえ、使わないと勿体ないでしょう」


冷蔵庫を開け、跡部に中身を見せる。そこには昨日私が用意したと思われる野菜や肉類が並んでいた。この量を手慣れていない人間が手際良く調理出来るとも思えない。

それに昨日の私はありがたいことに、今日の献立をメモして冷蔵庫に貼ってくれている。メニューと材料さえ解れば作るのは簡単だ。料理部を舐めてもらっちゃ困る。


「まぁ、お前がしたいならばそれでもいいが……」
「じゃあ決まり。色々と不便をかけるかもしれないけど、宍戸とジローもいるし、跡部もフォローお願いね」


それからまず立海のマネージャーという女の子が調理室にやって来た。いつも各校のマネージャーが食事の準備を手伝ってくれているらしく、経緯を説明すると彼女は心配そうな表情を浮かべ、普段は各食事に一人ずつ来ているけれど増やしましょうかと言ってくれた。

けれどもいざ料理を始めてみるとやはり体は覚えているようで、器具の場所なんかも思った通りの場所に入っていたりして大丈夫そうなので、今まで通りで良いよと彼女に伝える。

あとは盛りつけて運ぶだけ、というところで調理室のドアが開き、宍戸とジローがジャージ姿で入って来た。心配そうに宍戸が私の顔を覗き込んで、頭をくしゃりと撫でる。


「顔色が悪いとかじゃねーんだな、大丈夫か?」
「跡部から聞いてびっくりしたCー」
「ごめんね、心配かけて。でも記憶喪失って徐々に治るっていうじゃない? 大丈夫だよ」


聞いた話だと、ここで料理をするのも八月いっぱいまで。あと二週間ほどのことだ、それが終わればいつもの生活に戻るのだし、料理を作る使命さえ果たしていれば誰がどこの誰だなんて、重要では無いだろう。

当事者だっていうのに呑気だなぁと宍戸は溜め息を吐いた。その言葉に私は笑って返す。呑気というか、まぁ、料理をしていればそのうち思い出すだろうという気がしているのだ。

窓からちらちら見える他校のジャージを来た男の子達を見ても誰が誰かは一切解らないけれど、なんとなく『あの子はこれが苦手かな』とか、『あれが好物だろうから作ってあげよう』なんて考えが頭の中に溢れて来ている。



「綾奈! 跡部から話を聞いた、大丈夫なのか?」
「記憶喪失だなんてたるんどるぞ、俺たちの事は覚えているらしいが……」
「うわ、うるさいのが来た」


バタバタと大きな足音を立てて国光と弦一郎が調理室に入って来た。跡部ったらこの二人にも話したのか、面倒な。慌てて来たらしく、二人の息が少し上がっている。いつまで経っても心配性なんだから、ほんと。


「別に怪我したとかでも無いし、大丈夫」
「そうか……だが、一体原因は何だ? 心当たりは無いのか?」
「心当たり……ねぇ。ああ、そういえば」


水道の所に置いてあったコップの事を思い出す。軽く水ですすいではいたものの、明らかに誰かが使ったコップだ。まだ水滴が残っているという事は、昨日の夜に誰かが使ったのだと思う。

もしかしたら私が昨日これを使ったのかも、とみんなにコップを見せると、いつも以上に眉間にシワを寄せながら国光がそれを私の手から取り、中の匂いを嗅いだ。次の瞬間、小さな悲鳴が国光の口から漏れる。

何事かと宍戸やジロー、弦一郎も同じように匂いを嗅ぎ、そして全員が国光と同じような反応をした。


「綾奈……原因は恐らくこれだ」
「ああ、これだな」
「これに間違い無いCー」
「これを飲んで記憶喪失など……」


たるんどる、と言われるのかと思ったけれど、いやこれを飲んだのなら仕方無いなと弦一郎が何やらブツブツ言っている。一体『これ』って何なのだろう。

その話を聞いていたらしく、調理室の扉の前で跡部が腕を組みながらにやりと笑った。


「乾の野郎……うちの料理担当にとんだことしてくれるじゃねーの」


その後、『乾汁』というものの恐ろしさをその場に居た全員にくどくどと説明されたあと、乾君が私の前に連れて来られた。どうやら自室の冷蔵庫の調子が悪かったという事で調理室で『乾汁』を冷やしていたらしい。

そして私がそれを、マネージャーの誰かが作った飲み物と勘違いして飲んだのだろう、という話に落ち着いた。それからどうやったら元に戻るかという話し合いがされ、ショック療法が良いのではないかとということで全く同じ物を飲まされた。

そうして、あたしの記憶は無事……に戻ったのでした。無事じゃない気もするけど。



16もしかして記憶喪失?
(20130711:理恵)
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