その一瞬を焼き付けろ | ナノ


夜八時。今日も何事も無く自分の仕事を終えた私は自分の部屋で夏休みの宿題と向き合っていた。忘れたいものではあるけれど、忘れてはならないものだ。

夏休みに入ってからこの二週間で国語と社会、理科までは終わらせた。今日からあまり好きではない数学に取り掛かる。

配られた問題集のページをぱらぱらとめくりながら、同じクラスの二人のことを考えた。宍戸もこう練習がハードだと、もしかしたらあまり宿題は進んでいないかもしれない。それでもそれなりに勉強はする彼だから、あまり心配もないだろう。

問題はジローの方だ。夕食後は自主トレをするなり明日に備えて休むなり自由時間になっているが、ジローのことだから宿題のことなんてすっかり頭から抜けているだろう。ギリギリになって泣きつかれても困る。そろそろやりなさいと釘をさしておかなければ。

そんなことを考えながら数ページ問題を解き、喉が渇いたので部屋に備え付けられている冷蔵庫を開けたが中は空だった。昨日までミネラルウォーターを常備していたのだけれど、昨日飲み切ってしまったのをすっかり忘れていた。

仕方ない買いに行くかとカーディガンを羽織って部屋を出る。私が泊まっている宿泊棟には自動販売機が無い為、男子共の宿泊棟まで行かなければならない。面倒ではあるが仕方ない、勉強の息抜きに散歩がてら行くとしよう。





宿泊棟について自動販売機で水を二本買う。本当は甘いジュースなんかも飲みたいけれど、こんな時間に飲むのはやはり気が引けてしまう。

両手に一本ずつペットボトルを持ってさぁ部屋に帰ろうとすると、階段からとぼとぼと千歳が降りてきた。だるだるのスウェットを着ているが、丈も袖も足りていないようで少し短い。


「あれ、千歳。また散歩?」
「散歩じゃなかー。相手ば探しとったばってん、なかなか見つからん」


そう苦笑いをしながら千歳が見せたものは将棋盤だった。この合宿所には時間つぶしの為か何なのか、将棋やチェス、オセロなんかのボードゲームが揃っていたりする。なるほど、対戦相手を探していたのか。

それにしても千歳が将棋とは少し意外だ。いつもフラフラしているイメージだから、長く座って盤に向き合っている姿が想像出来ない。どちらかというとすぐに飽きてしまいそうなのに。

自分の学校の仲間には将棋は嫌だと断られ、他校の学校に行くにもそこまで仲のいい知り合いがいないから頼みにくかったそうだ。確かに私も勉強が解らないからと言っていきなり立海の人に聞きに行くことは出来ないから似たような感情なのだろう。


「私ちょっとだけなら指せるよ」
「ほなこつ? なら一局!」
「良いよ、どこで?」
「んー、俺ん部屋は今ちょっと騒がしいけん……」
「じゃあ私の部屋に行こうか。宿泊棟が違うから面倒かもしれないけど」
「綾奈ちゃんの部屋?」
「嫌?」


確かにスウェットに着替えているということはもうお風呂も済ませていつでも寝られるということだ。わざわざ私の部屋まで行くのも面倒だろう。けれども廊下の椅子に将棋盤を置くのも不安定だし、何よりお風呂の後だと湯冷めしてしまうかもしれない。

嫌じゃないと千歳が首を横に振ったので、そのまま部屋へと連れて行く。身長が高いのに大人しく私の後ろをついてくる姿は、どこか小さな子供のようにも思えた。





「……殺風景やね?」
「一ヶ月しかいないんだし、必要ないものを持って来てないだけだよ」


もともと備え付けのテーブルと椅子、それから折りたたみの椅子をひとつ出してきて、テーブルの上に将棋盤をセットした。駒をケースから取り出して並べると、千歳もそれを見て自分の側を並べ始める。


「言っておくけど、国光とか弦一郎と昔ちょっと指しただけだから強くは無いよ」
「なら二枚落ちにすっと。初めての人と指すんはいつでも面白いばい」


そう言うと千歳は自分側の飛車と角を取り、駒が入っていたケースの中へと戻した。昔初めて将棋を指した時に、国光にも同じことを言われたことがぶわっと脳裏に蘇る。

結局二枚落ちの状態でも国光に勝つことは出来なくて、悔しくて弦一郎に何度も練習で勝負を挑んだ。最初は弦一郎にも勝てなかったけれど、二枚落ちでなら勝てるくらいには成長したっけ。

パチン、パチンと駒が盤に置かれる音だけが私の部屋に響く。目の前に座っている千歳はまるで普段とは別人のように目の前に座っている。真剣なまなざしは真っ直ぐに盤上を見ていた。


「あと十八手」
「え?」
「詰みまで、あと十八手ばい」


何を言っているのかとそのまま勝負を進める。信じがたいが念のため数えていたら、手が進むにつれて段々と私の戦況が悪くなっていった。あと十手、八手、六手……と数えてとうとう後二手という千歳の手で、私の王将は完全に逃げ場を失った。


「……負けました」
「お、ちゃんと十八手で解ったと? 綾奈ちゃんなかなか先が読めるんやね」
「でも二枚落ちで全然相手になってない。また今度勝負しよう」
「よかよか、いっぴゃ勝負すったい。今日は遅いけん、そろそろ帰るかね」


盤上の駒をじゃらじゃらと手ですくい、ケースへと戻す。久々にやると将棋も腕が鈍るものなのか、それとも千歳が国光や弦一郎と比べて強すぎるのか。どちらにしても全く歯が立たなかった。

悔しいのでまた今度勝負を挑もうと思う。そのためにはまた弦一郎に練習相手になってもらわないと。


「ならね、綾奈ちゃん。楽しかったばい」
「私も久々に将棋やれて楽しかったよ、ありがとう」
「ばってん、こんな時間に男を部屋に呼ぶんは関心せんねぇ」


そう言うと、千歳は私の手首を掴んだ。大きな手は私の手首をがっちりと覆い、少し動かそうとしてもびくともしない。いったい何のつもりかと顔を上げたとき、頬に唇が寄せられた。


「食べられたらどぎゃんすっと?」
「千歳は、っていうかここにいる子みんなだけど、そんなことしないでしょ。でもまぁ、忠告はありがたく受け取っておく」
「あはは、信頼ばされとるんやね」


へらへらと笑う千歳におやすみ、と将棋盤と駒の入った入れ物を乱暴に手渡すと、彼もおやすみと笑って私の部屋を出て行った。注意するだけなら頬にキスする必要はあったのだろうか。……さっきのは犬に噛まれたとでも思っておこう。



14また来れば?歓迎はしないけど
(20130408:理恵)
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