限りないセンチメートル



「おはよう精市」

「ん、おはよう」



翌日。

部活がオフな為いつものテニスバッグでは無く合皮のスクールバッグを机に置き、幸村は斜め前の席の柳と挨拶を交わした。ついでに近くにいた女子からの挨拶にも適当に返事をし、そこでトイレに行こうと思い立ったので一度教室から出る。



「…あ」



その時前方に目に入った見覚えのありすぎる姿に、幸村の口からはそんな声が漏れた。見覚えのありすぎる姿、というのは言わずもがな晴香の事で、彼女も彼が漏らした声に反応し同じように足を止めている。



「幸村君。おはよう」

「あぁ、おはよう」



至極眠たそうなその顔はいつもより更に気怠さに磨きがかかっており、幸村は苦笑しながら晴香の額を小突いた。油断している時にそのような事をされた為彼女は不機嫌さを全開にし、同じように彼の額を小突く。小突くとはいえ、仕返しというニュアンスが含まれているそれがどれだけの威力を持っているかなど、晴香の性格からして容易に想像できるだろう。そうすると次は幸村が顔を顰めた。



「痛いんだけど。俺こんな強くやってないじゃん」

「仕返しだ」

「じゃあ仕返しの仕返し」

「なら仕返しの仕返しの仕返し」

「…馬鹿みたいだからやめよう」



延々と続きそうな勢いだった小突き合いは我に返った幸村の発言により終わり、2人の間には一瞬沈黙が降りかかった。その一瞬の間で幸村は昨日ジャッカルから貰ったチケットの存在を思い出し、今一度ズボンの後ろポケットに財布が入っている事を確認した後、意を決したように晴香の名前を呼んだ。



「なんだ」

「…あの、さ。今週の日曜暇?」

「部活がオフの日は基本暇だが」



とりあえず予定を確認出来た所まではいいが、問題はここからだ。幸村は財布の中から件のチケットを1枚取り出し、ズイッと押し付けるように前に出した。急にそんなものを渡された晴香は目を丸くしキョトンとした後、戸惑いつつもチケットに書いてある内容を読み始めた。そして。



「行く。絶対行く」

「それはいいんだけど、なんかこれペアチケットらしくて、それもカップル割引の。ジャッカルがくれたんだけど。それでさ」



行くとしたら俺と2人になるけど、お前はいいわけ。

幸村らしからぬ文脈がバラバラな言葉を紡いでいる所を見る限り、余程余裕が無い事が窺える。本来ならば誘いの言葉くらいもう少し気の利いたものの方が良い気もするが、それを今の彼に求めるのは野暮も良い所だ。



「?断る理由がどこにあるんだ」



しかし、幸村の必死な想いなど微塵も気付いていない晴香は、さも当たり前かのようにそう返事をした。誘いに乗ってもらえた事に安心した彼は彼女にバレないように小さく息を吐き、次に約束の日時や待ち合わせ場所を伝えた。それからはもうHRが始まる時間になったので、彼は本来の目的であったトイレには行かずそのまま彼女と同じく自分の教室へ戻った。



「上手くいったようだな」

「何、盗み聞きしてたの?」

「まさか。窓から見えた」



自席に着くと待ち構えていたかのように柳が茶々をいれてきて、幸村はいつもの事ながらも今ばかりは強がった反抗を出来そうになかった。

断る理由が無い。

恐らくそれは、晴香にとっては何の特別な意味もなしに放たれた言葉だったに違いない。仮に誘ったのが自分ではなく、自分と仲の良い他のメンバーだったとしても彼女は躊躇なく誘いに乗ったであろう。でも、そう分かっていても、彼女の事を特別視している以上舞い上がる気持ちを止める事は不可能だった。

他の女子生徒の中にいると大柄な方に見えても、自分が真っ正面に立って話し相手となると途端にその体格の差を実感する。華奢な体で、大きな瞳で見上げながら放たれたあの言葉は、正直破壊力がありすぎた。



「(女みたいじゃん、俺)」



担任の話もロクに頭に入らないどころが、先ほどの事を思い出すだけでニヤケが止まらない。幸村はそんな浮かれた気持ちを斜め前の男に悟られる前に、自ら両腕を枕に突っ伏しその表情を隠した。無論、柳がそんな彼の状態を横目で見て微笑み、またデータノートに何かを書き込んだ事は言うまでもない。
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