「これ、さっきも言ったよね?同じミス何度もしないでくれるかな」

「すみませんでした」



中小会社に勤め始めて1ヶ月になる女の名前は、豊崎律子という。冷静な判断力と仕事の手際は中々のものだが、時々こうして上司や先輩から叱られる事も少なくは無い。しかしそれは彼女に限らず多くの社員が同じで、彼女は頭を下げてから自分のデスクに戻った。



「大丈夫だって豊崎、あの人今日機嫌悪いだけだし!」

「ありがとう」



隣に座る同期の柴崎は、そう言うと律子に一粒のキャラメルをあげた。持ち前の愛嬌で周りから人気のある柴崎を、彼女は知っている。最初見た時は驚いたが、これも何かの縁という事で今では1番の仲だ。この世界でただ1人何も変わらない彼女を見ていると、可笑しさと愛しさのようなものが込み上げてくる。

それから数時間後には終業時刻となり、残業を小1時間ほどしてから律子はその場を後にした。電車で20分ほどの小さなアパートに向かって、まずは最寄駅に歩き始める。

 彼らとは、まだ逢っていない。

かつて仁王が経営していたバーの通りにも行ったがそこはもぬけの殻で、空き地が売り出されているだけだった。幸村の店は確かに家具屋として存在はしていたが、中に入っても彼の姿は見当たらなかった。商品も内装もあの頃の清潔感が漂うものとは違い、どちらかというと懐かしい気持ちになるようなアットホームなものだった。



「ここで試合を終えた越前リョーマ選手にインタビューを行いたいと思います!」



あ、でもこの子だけは違うか。そう思い音のした方向に目を向ける。電気屋の店前に置かれているいくつものテレビに、越前は凛々しく佇んでいた。今や日本を誇るテニスプレーヤーとなっている彼に、そう簡単に逢う術は無い。しかし律子はそれが嬉しかった。ご丁寧にテニスの王子様なんていうキャッチフレーズまで付けられており、それを言われる度に少し不貞腐れる彼の表情は見てて面白い。

他にも、跡部が新聞や雑誌に載っているのは何度か見た事があった。跡部財閥の名はこの世界でも大きく知られており、御曹司の彼は度々マスコミに取り上げられる。彼のカリスマ性はむしろ前の世界よりも更に増していると思える程で、そしてその方が合点が行った。

それぞれがどのような職に就いているのか、彼女は知る術もない。各々やりたい事をやっているかもしれないし、出来ていないかもしれない。そんな当たり前の事にこれほどの安心感を抱くなど、今までの彼女からは考えられなかっただろう。



「いらっしゃいませー」



駅構内にあるコンビニに立ち寄り、新しく出た雑誌と今夜の晩御飯を購入するべく店内を回る。やけに笑顔のレジの男には軽く会釈をしておき、どの雑誌が良いかしばらく物色する。そうして1冊手に取ってからはお気に入りの牛カルビ弁当とビールを手に取り、ついでにiTunesカードも取ってレジに向かった。



「合計4318円で御座います」

「はーい、…うわ」



4000円を出し、300円を出し、15円まで出したところで財布の小銭が切れた。仕方なく札を出そうにも1万円札しか無く、小さな不幸に落胆しつつもそうするしかないのでしようとした時、後ろからぬっと手が伸びて来た。その手はそのままレジに置かれ、チャリン、と1円玉が3枚転がる。



「え」

「ちょうど小銭が多くて邪魔だなと思っていたので」

「ちょうどお預かりします!」



空気の読めないレジはさておき後ろを振り返ると、思わず律子の口からはあ、と声が漏れた。

切れ長な目。切り揃えられた髪。この自分の身長でも見上げなければいけない位置にある顔。古風な雰囲気。何の職をしているかは流石に見ただけでは分からないが、スタイルの良さが強調されているスーツも相変わらずで、淡々とした喋り方も聞き覚えがあった。



「すみません。お節介でしたか」

「いえ。…ありがとうございます」



思いも寄らない出逢いはそれだけに驚きが多く、結局その場はそれ以上何も話さずに終わった。でも、また必ず逢えるだろう。そんな無責任な予感が今は嬉しい。

ずっと望んでいたものが何なのかは、口に出そうとするとどうにも難しく言葉にならない。通常人生にリセットボタンなどは無いが、それが彼女には2回も与えられた。1回目は決して良いものでは無かったが、2回目の今は不思議と心が落ち着いている。自分の性格が変わったとは思えない。相変わらず口は悪いし、人の欠点ばかりが目につく。しかしそれでも、今の生活に不満があるかと聞かれれば、特に思い浮かばない。



「今度こそ、幸せになれると良いね」



やっぱりあの笑顔はそうだったか。後ろから聞こえた声には振り返らずに店を出ると、あの頃とはまた違う新しい風が身を包む。そんな律子の足取りは、心なしか軽くなっていた。



20140302.fin

→あとがき
 3/3 

bkm main home
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -