「…何、手でも滑ったの?」

「かもね」



来る衝撃を目を閉じて待っていたら、代わりに2人分の呻き声が耳に入って来た。ピチャリと頬に当たった飛沫にも疑問を感じ目を開ければ、なんとなく予想していた通りそこには私の両親が地面でのたうち回っている。男はトドメを刺すように2人の心臓に交互にナイフを突き立てると、いい加減絶命したのか耳障りな声は聞こえなくなった。指で頬を拭えば、そこにも案の定どす黒い血が見える。



「被験者以外を殺すのは流石にまずいんじゃないの」

「かもね」



さっきから同じ返答しかしない男も頭が沸いてるのか、とうとうカラン、とナイフを落とした。でも顔を見る限りイッている訳では無いらしく、目はしっかりと両親を見据えている。そしてそのまま、ゆっくり私に移動する。



「なんだろう。やっぱり君を失くすのは惜しい」

「今更情でも沸いて来たの?」

「24時間以内で1年以上の年月を共に過ごしたしね。そうかもしれない」

「気持ち悪い言い方しないでよ」



男はゆっくりと椅子に腰掛けると、あの世界が入っている機械をおもむろにいじり始めた。今更ながら、あんな小さな機械の中で自分が過ごしていた事に違和感を抱く。しばらくいじっている様子を見ていると、ふいに機械はピーーー、と数秒音を立てた。



「何の音?」

「リセットした」

「は?」

「君が入る前の、もっと言えば榊原恵が入る前の、ただテニスの王子様達を元にした人物達が存在してるだけの世界に戻した」

「何の為に?」



心なしか穏やかになり始めた男の表情を見て、なんだこいつ気持ち悪いと心の中で思う。傍らには両親の死体が転がっているというのに私もいつの間にこんな冷静でいられるようになったのか、というのはどうでも良く、とにかく男の言葉を待った。



「日本人女性の平均寿命から換算して、後約60年、どれだけ長くても70年くらいで君は死ぬ。あっちの世界の70年はこっちにして2ヶ月弱といった所だ。君のデータはもう取れた。2ヵ月ただ君を放っておくだけなら他の実験とも平行して出来る。個人的に君の一生に興味があるから、僕は君の死に際までを見届けたい。どう?」



それはまるでゲームを提案するかのような軽い口調だった。あの世界でもう一度生きる?でも今回は前とは違って、男は何の手も施さない。今のままの私であの人達とまた逢う。いや、逢わないかもしれない。私の知能では柳達の会社には入れないし、むしろ柳達だってあの会社では無いかもしれない。彼らの補正も消えるなら、1つの会社にあんなにもの部活仲間が集結する事は無いだろう。何もかもが不明確で、謎に包まれている。

それでも?



「前の世界よりは、随分とマシなものになるかもしれないね」



むしろ、その方が良かった。感覚としてはこれでやっと人間になれるのか、なんていうおかしなもので、やっぱり私も人の事言えないくらいには頭やられてるのかもなぁなんて、落ちていたナイフを拾いながら改めた。真っ直ぐこっちを見据える男に向かって私も真っ直ぐ歩いていく。そしてそのままの勢いで、驚く程スムーズに奴の体に突き立てられた。



「や、っぱりか」

「ずっと殺したい程憎んでたもの。最後に善人にでもなりたかったの?」



奴は、さっき私を殺さない選択をした時から全て悟っていたのだろうか。辛うじて息をしている体は椅子から崩れ落ち、両親と同じように地面を這った。でもその表情はやはり穏やかというか安心したような感じで、あまりの気持ち悪さに溜息が出る。

ナイフをそこらへんに投げ捨て、機械が作動しているのを確認してから自分で栄養補給のチューブを鼻に入れ、最後にヘルメットをかぶる。ぐわん、と視界が歪み始める。

男女共に好意を持たれるような人柄になって、人間関係に不自由しないようになりたい。そんな願いを叶えたのはこの男のはずなのに、ミイラ取りがミイラになったか。最後まで目の合っていた笑顔の男に舌打ちをして、私はこの世界を再び捨てた。
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