この手で抱きしめたくてたまらなかった。近くで声を聞きたくて仕方無かった。それが叶わなかった、後姿だけをただ見届けたあの日。 「(そろそろか)」 もうあの日のようにはさせない。俺はその気持ちだけを胸に、寮を後にした。 *** 「寒いー!」 「だいぶ涼しくなって来たわねー。早く中入ろう」 初冬の寒さを体感するようになってきた、11月下旬。 「泉、ココア?コーヒー?」 「ココアがいいなぁ。ありがとう」 「うん」 暖房が効いている校内に逃げるように入って来た泉と香月は、大学最後の難関ともいえる卒業論文に取り掛っている真っ最中だ。内定も決まり、残すところはこの卒論のみ。確実に迫っている卒業に、高校卒業間近の気持ちを再び思い出さざるを得なかった。 「あの頃も実感なくって、こうやって普通に過ごしてたよね」 「そうねー、登校しないからって毎日遊んでたような気がするわ。それと比べたら、今はこの卒論のおかげで嫌でも実感するけど」 「確かに」 氷帝大学の卒論は手書きではなくパソコンで打ったものを提出するため、2人はそれぞれノートパソコンを持参している。画面には堅苦しい題目にこれまたわかりにくい文字が羅列されており、見ているだけでも頭が痛くなりそうだ。 「やっと半分まで来たー。あーもう2万字とか本当無理!…って、え?あんたどんだけ進んでんの!?」 「ん?もう仕上げだよ」 「このちゃっかり者!」 「ちょ、当たらないでよー!」 香月は、自分とは雲泥の差と言えるほどパッと見よく出来た論文を書き上げてる泉の頭を、八つ当たりとしてぐしゃぐしゃと撫で回した。それに彼女はくすぐったそうに反応し、緩い抵抗を見せる。 「2人して何やってんのー?俺も仲間に入れてー!」 「あ、ジロー」 「入れない。あんたはあっち行きなさい」 「Aー安西のケチー」 そこにいつも通りの笑顔で近寄って来たのは芥川で、勢いよく2人に飛び付く。 「全く、相変わらずですね」 「ウス」 「いいんじゃないかな、楽しくて。それにしても珍しいねー3人が一緒にいるなんて」 その後ろには、まるで芥川の保護者のように呆れた面持ちの日吉と、こちらも相変わらず無表情の樺地が立っている。泉はその3人という意外な組み合わせに少々首を傾げた。 「さっきまで鳳と滝先輩もいたんですが、音楽室を見付けるなりそっちに行きました」 「なるほど、2人とも音楽好きだもんね」 そこで泉の脳裏をよぎるのは、高校時代、鳳のピアノを聴きに放課後音楽室まで通っていた記憶だ。繊細なメロディーが大好きで、いつも聞き惚れていた事も同時に思い出す。 「(いつまでも高校高校って、全然抜け出せてないなぁ私)」 しかし泉はそれでも良いと思った。美しかった、輝いていたあの日々がいつまでも色褪せなければ良い、そう思った。 「あ、ちょっと出てくるわ」 そんな風に泉が物思いに耽っていると、ふいに香月の携帯が着信を知らせた。香月は相手を確認しないままその場から立ち去り、残された3人はごく日常の風景なので特に気にすることなく、そのまま雑談を続けた。 「うげっ、泉超出来てるじゃん!俺なんか安西よりできてないCー!」 「それは流石に…大丈夫?」 「まぁなんとかなるよー、ね、日吉!」 「言っておきますが俺は手伝いませんよ。就職活動だって既に始まっているんです」 「Aー!」 「えー、ってジロー、本当に手伝ってもらう気満々だったんだね」 後輩にまで頼ろうとしていたその能天気さに、泉と樺地は思わず苦笑を浮かべる。日吉にいたっては最早溜息しか出ていないが、当の芥川はずっと笑顔だ。 「変わらないなぁ、全然」 そう呟き口をつけたココアはぬるく、泉はその物足りなさに更に苦笑した。 |