2日目

翌朝。通常よりも早い時間に設定したアラームを即座に止め、他の2人が起きていないのを確認してから慎重に起き上がる。

軽く体をひねり、最早筋肉痛になってしまった身体に苦笑しつつタオルや洗面具を用意し、そのまま浴場へ向かう。

時刻は午前5時。廊下に出ても人気は全く無いが、念の為早足で歩くよう心掛ける。昨晩の跡部の呆れようを学習しての行動だろう。そうすると浴場にはすぐに辿り着き、彼女は一刻も早く汚れを落としたい一心で素早く服を脱ぎ捨て、中に入った。



「ふぅー…気持ちー…」



勿論中にも人はいない。それを良いことに、泉は大の字で湯船に浸かっていた。



「おばさんくさいよ?」

「っ、リョーマ?」




しかし、突如男湯から聞こえた聞き覚えのある声に驚き、見られていることはまずないのだがすぐさま体勢を整える。



「朝早いんっすね」

「リョーマこそ。起床は6時半のはずでしょ?」

「昨日、夕食の後すぐ寝ちゃったから。朝入んないと気持ち悪いじゃん」

「うんうん、寝る子は育つよ」

「厭味っすか?」



越前は中学の頃に比べればまだ伸びたものの、それでもレギュラー達の中では相変わらず小さい方だった。不機嫌そうな声色で彼の表情が容易く想像出来た泉は、からかうのも此処までだな、と思い、湯船から立ち上がった。



「そんなことないって。それじゃ頭洗うねー」

「じゃ、俺も」



お互いのシャワーが床に当たる音だけが浴場に響く状態がしばらく続く。そうすること約15分だろうか、泉がシャワーを止めた時には既に越前は湯船に浸かっているのか男湯は静かだった。



「あ、もう5時半だ。朝ご飯作らないと」

「じゃあ俺もあがるんで手伝うッスよ。一緒に行きましょ?」

「うん、わかった」



再び交わされた壁を挟んでの会話。…この約束が泉にとってどれだけ致命的なものか、彼女はまだ気付いていない。

洋服を身に纏い、化粧水を塗り、髪を乾かし。そこまでの動作を行ったところで事件は起こった。



「…やっば」



すっかり家も同然の行いをしていた泉は、朝起きてすぐに眼鏡をかけるという習慣を身に着けていなかったゆえに、眼鏡を部屋に忘れてきてしまったのだ。一気に血の気が引くのを全身で感じ、思わずその場に立ち尽くす。



「しかもヘアゴムもない…」



つまり、今の泉はMiuそのものということになる。



「やばい。やばいやばい」

「何連呼してんの?」

「ちょ、入ってこないでね!?」



しかもその時、既に用意を済ませたのか暖簾の向こう側から越前の声がした。追い打ちをかけるような事態に泉は更に焦るばかりだ。



「まだ着替えてんの?」

「いや…あの、そういうわけじゃないんだけど」

「じゃあいいじゃん」

「だっ、だめ!まだ下着とか片付けてないから!」

「…そういうこと普通男の前で言います?」

「いいから駄目!」



私だって普段はこんなこと言わないけど今は仕方ないじゃない!と嘆く泉の状態など越前が知るはずも無く、むしろ今にも入ってきそうな勢いだ。

まさに絶体絶命。

その時だった。



「兄ちゃん覗きかい!?はい、どいたどいたっ!」

「は?いや、人待ってるんッス」



暖簾の向こうで越前とおばさんらしき人との会話が聞こえ、掃除のおばさんかな?と思いつつも緊張で体が固まる。直後勢いよく舞った暖簾を、泉は呆然と見つめていた。



「おや、もう入ってたのかい。早起きだねぇ」

「え、あ、はい」

「そうかい。にしてもアンタ…」



会話を遮られた挙句まじまじと顔を見られ、まさか?と再び思考回路を目まぐるしく巡らせている間にも、掃除のおばさんは泉に近寄る。目と鼻の先まで来た所で、いよいよ彼女は息を呑んだ。



「無防備すぎじゃの」



が、泉の予想とは裏腹に、掃除のおばさんは耳元でそう呟いた。確かに外見は掃除のおばさんだが、聞こえた声はそれではない。



「…仁王、君?」

「プリッ」



作業用の帽子と共にカツラを外すと、そこには確かに彼、仁王特有の綺麗な銀髪が出てきた。予想外すぎる事態に彼女の頭は混乱状態だ。



「ど、どうして此処に?」

「青学の1年2人が、お前さんに眼鏡を届けようとしてるとこにたまたま遭遇しての。眼鏡なきゃ何も見えないって説明した癖に忘れるとはどういう了見じゃ」

「ですよね…矛盾してますよね」

「流石に怪しまれたぜよ」



いくら詐欺師でも、わざわざ泉の眼鏡を横取りする理由を作るのには中々骨が入ったようだ。桜乃だけならともかく朋香は警戒心が強い。結果としてはなんとか言いくるめられたようだが、その表情は疲れ気味だ。



「全く、寝惚けてるにしてもお前さんは危険すぎじゃ。もっと自覚を持ちんしゃい」

「うん、ごめんなさい…それとわざわざありがとう、変装までしてくれて」

「えぇよ。…っちゅーか」



とりあえずは此処までの経緯を理解し、安堵する泉。しかしそれも束の間、仁王は本題を終えるなり泉に更に密着し、真正面から腰を抱いた。



「風呂上り、っちゅーのはソソられるのう」

「え?あの、ちょっと」



越前に聞こえないようにと潜めていた声が、更に小さくなる。明らかにパーソナルスペースを越えている距離を疑問に思い、泉はやんわりと仁王の体を引き離した。



「得すること無いしやめておきなよ」



何の感動も照れも無くそう言って来た泉を見て、仁王は一瞬目を丸くした後に心底愉快そうに笑った。そうしてひときしり笑い終わったところで腰から手を離し、再びカツラと帽子をかぶる。



「本当に助かった、ありがとう」

「俺に出来ることがあったら何でも言いんしゃい。まぁお前さんが1番に頼るんは跡部じゃろうが」

「でも、仁王君にも頼めることあったらちゃんと頼むよ。頼りにしてる」



さっきまでの雰囲気は無くなり、やんわりと仁王が笑う。



「なあ、泉って呼んでよか?」



そして次に出たその言葉に、泉も軽く微笑みながら頷く。



「うん、じゃあ雅治も雅治だね。何か新鮮だ」

「家族にしか呼ばれてないからのう。じゃ、そろそろ越前が強行突破してくる頃じゃから行きんしゃい」

「はーい」



仁王の催促により泉はようやくそこから出て行き、こうして彼女の素顔についての秘密は無事守られた。

 やっぱりおもろいのう。

泉が出て行った後、仁王はまるで新しい玩具を見つけた子供のように楽しそうに笑い、1人呟いた。彼女は更に興味を持たれたことになど全く気付かず、安心した面持ちで越前と並んで歩いているのだった。
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