今晩の料理を決める為、先程自室から取って来た料理本をマネ室にて眺めていた泉。本を閉じて立ち上がった様子から、どうやら献立が決まったようだ。 時刻は16時半。まだ始めるには少し早いがどうやら手間のかかる料理のようで、泉は早めに抜ける事を朋香と桜乃に伝えるべく、マネ室を出て足早で2人の元へ向かい始めた。その足取りは軽く、今晩も美味しいものが作れる事を全身で表しているかのようだった。 *** 「泉先輩っ!」 「はーい退けようねー」 マネ室から出て2人の元へ歩いていると、氷帝のコートから抜け出してきた鳳君が飛びついてきた。まだ練習中のはずだし、私だって急いでいるから申し訳ないけど今は構ってあげられない。 「長太郎!練習すっぞ!」 「先輩ー!!」 「夜遊びに行くから。ね?」 あやすようにそう言うと案の定鳳君は目を輝かせて、さぁ行こうとまた歩き出そうとすると、景吾が妙にドスの効いた声で名前を呼んで来た。そして見つめあう事数秒、あ、と大事な事を思い出し慌てて「明日の朝起こしに行ってあげるよ!」と条件を変える。 「本当ですか!?待ってます!起こされるまでずっと寝てます!そして朝一で泉先輩の顔を見て、」 「いーくーでぇー」 「落ち着こうね、鳳」 興奮する鳳君の根っこを宍戸君が掴んで、それに侑士も加勢して、ハギは隣に付き添って。未だに叫んでいる鳳君の声をスルーして隣を見ると、そこには眉間に皺を寄せて此方を睨んでいる景吾がいた。うん、言いたい事はわかります。 「忘れやすい奴だなお前は」 「はは、今日夜仕事だったね」 そう、さっき鳳君に明日の朝なら、と言い直したのは、今日の夜はラジオの収録が入っているのだ。景吾に言われなかったらすっかり忘れてたし大変な事になってた。だから改めてお礼を行ってから踵を返し、私はようやくそこから離れた。 それから少し歩いていると運良く朋と桜乃ちゃんに遭遇し、私は一足先に厨房に行っていると2人に伝え、合宿所内に足を踏み入れた。 「すみません。お聞きしたいんですけれども、コチュジャンありますか?」 廊下を歩いているとこれまた運良く支配人さんに出くわし、早速聞きたかった事を問いかけてみる。言い忘れていたけど、この合宿所は跡部家の所有地でもある。ゆえに食物関係はオールジャンル完璧といっていいほど揃っていて、近所のスーパーより断然品揃えが豊富なのが有難く嬉しい。 「コチュジャンですね。しばらくお待ち下さい、見つかり次第厨房までお届けしますよ」 「わざわざすみません、ありがとうございます」 支配人さんの親切に甘える事にし、厨房に向かって歩き始める。 *** 「いたたたた…ん?」 あーあ、ダッサいミスしてしもて浪速のスピードスターの名が廃れるわぁ。謙也がそう愚痴を吐きながら足を庇いつつ医療室に向かっていると、通りがかりの厨房の前で空腹を刺激する匂いが彼の鼻を掠めた。それにつられるようにチラ、と厨房に身を乗り出す。 「(は、)」 謙也は、そこに泉がいれば治療は彼女に頼むつもりだった。しかし、彼は彼女の姿をしっかりと目に捉えているにも関わらず、本来言う予定だった言葉は全く出せていない。その代わりに間抜け面が浮かぶ。 誰やねん。それが率直な感想だった。 「…なぁ」 「…え?」 意を決して声をかけた謙也に、たっぷり5秒は間を開けて返事をした泉―――その顔には、いつもの眼鏡はかけられていない。 野菜を茹でていると、その蒸気で眼鏡が曇るのはごく自然の摂理だ。それを疎ましく思った泉は1年達が来るまでの間は誰も来ないだろうと勝手に想定し、周りを確認しないまま眼鏡を外してしまったのである。全く持って注意が足りないこの行動は、跡部と日吉が見れば直ちに説教が始まるだろう。 「…足、怪我してもうたんやけど、治療頼める?」 「たっ、頼める頼める全然大丈夫!だからあっちで待ってて!」 幸い現時点で謙也はまだ泉の正体に気付いていないようだが、それでも彼女が焦るのも無理は無い。手元にあった眼鏡を引っ手繰るようにかけたと同時に、謙也は彼女の顔を覗き込んだ。その表情には明らかに疑念が込められていて、思わず泉の肩は最大限にすくむ。 「どうしたの?ほら、早く医務室行かなきゃ!」 いくら眼鏡をかけているとはいえ、長時間至近距離で見つめられれば流石に危ない(そもそも眼鏡だけで隠し切れていると思っているのも不思議だが)。なので泉はなるべく平然を取り繕いながら、一度火気類を全て止める為と表面上は称して、謙也の傍から離れた。 自分、誰かに似てるて言われへん?ううん全くそんなの一度も言われた事無いよ。あまりにも棒読みで早口なその台詞の真意を見抜かずにいてくれた謙也に、泉は心の中で大いに感謝した。 |