極彩色が目を覚ます



桜の花びらが舞う道を進んだ先に、氷帝学園中等部のテニスコートがある。俺の進む先を遮らない程度に離れつつも、女子生徒が道の両端から遠慮なく視線を寄越してくるのには慣れたものだが、今日は男どもも混じっているようだ。テニス部を見学しに来たのか、噂を聞いて見にきただけの奴らか……どちらでもいいことだ。

テニスコートには入部希望の一年が既に多数集まり、隅で半円を作っていた。その中心に苗字がいる。一年に紙を配りながら話をしている彼女がふとこちらを見た。そして苗字は、朗らかに一年に笑いかける。

「あちらが跡部部長です」
「「跡部部長お疲れ様です!!」」
「ああ」
「はいじゃあ一年の男の子は化学室Bで着替えて、またここに戻ってきてください。マネージャー希望の子は私に着いてきてね」
「「はーい」」
「はい行くよー」

ほう、と思わず感心して声が出た。マネージャー希望者は元より苗字に任せるつもりだったが、男も含めよく纏めている。一年が俺に向かって挨拶をする声もタイミングも揃っていたので、この短い時間で仕込んでいたのだろう。彼女は後輩の扱いに長けているらしい。
一年前の春には居心地悪そうにまごまごしていた奴が、随分変わったものだ。



苗字名前と初めて会った時のことは覚えていない。厳密に言えば入学式の日、同じ教室、隣の席にいたあいつを視界に入れてはいたが、特別目立った言動のない彼女を気に留めることはなかった。最初に認識したのは、入学式翌日。あいつがテニス部の仮入部に来た時だ。クラスメイトの女数人に引っ張られるようにやって来た苗字を、主体性のない奴だと俺は判断した。

「お前、マネージャーだろ。放課後はジローを連れて部活に来るようにしろ」
「え」
「わかったな?」

四月の下旬だったか。苗字に初めて話しかけた。この女、俺様が呼んでいるというのにしばらく気が付かない上に、漸く顔を上げたと思ったら俺の言うことに不満そうな顔をしやがる。
しかし、渋々ながらも頷いた後は存外きっちりと仕事をこなしていた。どうやっているのか知らないが、放課後の練習に間に合うようジローを起こし連れてくる。少しは役に立つらしい。

普段はあまり表に出さねえが、根は負けず嫌いなのかもしれない。他人に対して闘争心を燃やすのではなく、自分に負けたくないと思っているタイプだ。そういう奴は大抵、諦めが悪い。


一年の夏の大会が終わり、秋になると苗字は学年で唯一のマネージャーになった。俺は去る者に興味はないが、辞めていく奴を見送る彼女の背中は頼りなく、何を言うつもりか自分でも分からないまま口を開きかける。
……だが、声をかけるのは、今じゃない。
意思をもって俺は口を閉ざし、あいつの心の底にある負けず嫌いに賭けてみることにした。期待したと言った方が正しい。

それから三年が引退し、彼女が受け持つ仕事は増え、負担が大きくなっていった。
苗字はよく動き、以前よりは周囲に気を配れるように、特に俺達部員の変化によく気が付くようにもなっていた。しかし気付くからこそ、一歩足りない自身の不甲斐なさにも直面するのだろう。苗字がもしも何にも見えちゃいない、この手で為していく気概のない奴なら。責任感などない奴だったなら、気楽に過ごせたはずだ。

秋が深まり肌寒くなってきた頃、テニス部が発注した備品に間違いがあった。二年のマネージャー長は、苗字が注文書に記載した番号が間違っていたと言う。
苗字一人のミスなのだと主張する女に腹が立った。
苗字の失敗じゃないとは思わない。だが、マネージャー長で、注文書のチェックをしているはずのこいつが何故、苗字一人のせいにするのか。冷えた眼を向ける俺を前に萎縮して、今度はやけに甘えた声で謝ってくるのがこの上なく不快だ。


「酷い顔だな」
「……生まれるとこからやり直す」
「馬鹿が。つくりの話じゃねえよ」

その日、部室に残り洗濯物を畳んでいる苗字の表情は酷く強ばっていた。部長として、もっと早く、こいつのキャパシティを超える前に声をかけてやるべきだったのだろうか。友人として、心配だと言ってやったほうが良かったのだろうか。
どうにも普段の振る舞いを変えることができない俺に、何を思ったのか知らないが、苗字はぎゅっと口を結んだ。みるみるうちに彼女の瞳に涙があふれる。心の内で痛々しく思いながら、俺は黙って見ているしかなかった。

揺らめいて、零れそうだった。けれど結局彼女は一筋も涙を流さなかった。

悪くない。十分に強い女だ。
だが、こいつは自分に満足していない。タオルで顔を拭って無理やり涙を消し去り、苗字は逸らすことなく俺と目を合わせてくる。瞳の奥に燃える彼女の意思を見て、心臓がいやに大きく鳴った。
苗字といて、居心地の良さと共に胸のあたりに不可思議な感覚を覚えるようになったのはこの日からだったと思う。


初めて経験する日本のバレンタインデーは話で聞くより騒がしく、俺らしくもない気疲れをした。だからなのか、苗字が作って持ってきたチーズケーキをやたらと美味しく感じた。美味いだけじゃなく、じわじわと染み込むような温かさもある。なんだ、これは。
その正体を知りたくて聞いてみても、特別変わったものは入れていないと言う。……ああ、隠し味は入れていたんだったな。言い当ててやった時のあいつの悔しそうな顔はそれなりに笑えた。

ジローと向日が何個も食べてしまったお陰で、残念だが、謎は謎のままだ。あいつら、少しは周りを気にかけろよ。一人でどれだけ食べたんだ。
しかしそこまで考えてから、元は二人が苗字に頼んだものだと思い出し、ばつが悪い。他人の物をねだるなんて卑しい真似をしてしまった。この俺が。

そんな俺の心の内を知る筈もない彼女は呑気な顔で「また作るよ」と言った。向こうでゲームを始めて喧しい向日やジローにではない。全員に聞こえる声でもない。何の気なしに俺に向けられるこいつの言葉が俺を落ち着かなくさせる。
何なんだ、お前。そう聞けるわけもない。聞いたところで、苗字が困るのは目に見えている。


ひと月後のホワイトデーのすぐ後から、テニス部の海外遠征が始まった。正レギュラー、準レギュラー、そしてレギュラーに着いているマネージャー数名も同行し、約二十名でオーストラリア、シドニーの宿泊施設に泊まる。シドニーの強豪校の選手はみな強く、練習試合の勝敗は拮抗している。苗字がいないことで目に見えてテンションを下げたジローは負けが込んでいたが……。
ジローだけじゃなく、向日や宍戸、普段は静かな滝までもがあいつの不在を度々口に出して残念がった。終いには、何故彼女をこっちへ呼ばなかったのかと俺が責められる。煩い奴等だ。

俺自身、連れて行きたくなかったわけじゃない。
だが、俺も監督もいない中で残される一般部員を纏められるのは彼女だと思ったのだ。俺のように、先頭に立ち高く旗を掲げることだけが人々を導く手段ではない。俺とは違う方法で、苗字はテニス部を良い方向へ向かわせてくれるだろう。本人にはその自覚も自信も無いが、四月からの約一年、近くで見てきた俺には確信があった。

遠征が始まると、現地の選手との合同練習に試合、交流会だ何だと忙しかったが、苗字が毎日メールで送ってくる練習の報告書には必ず目を通した。部員の様子がかなり細かく書かれている日報。そこには彼女なりの試行錯誤の分析や、控えめな提言も記されている。こいつがレギュラーのマネージャーになったならどんな働きをしてくれるのか楽しみだ。
しかし日報を読んでも分からない事もあった。部員の体調に触れている項目もあるが、書いている本人はどうなんだ。文面から読み取れる以上の負担がかかってはいないかーー。
気になるなら一通メールを送ればいい。元気でやってるのか。打ち込んで送信するのに三十秒も要さない。あいつはきっとすぐ返事をするだろう。それで解決するというのに……何を躊躇ってるんだ、俺は。

遠征何日目かの夜、悩んだ挙げ句、日本にいる苗字に電話をかけた。シドニーと日本の時差は一時間。部活を終えて帰宅途中か、家にいる時間帯だろう。
コール音はすぐに鳴り止んだ。

『……もしもし? 跡部?』
「ああ」

遠慮がちな声で応答されて、口許から笑みがこぼれる。

『久しぶり』
「……別に久しぶりってほどじゃねえだろ」
『え、そうかな。私的にはだいぶ久しぶりな感じがするけどなあ』
「そうかよ」

俺も、久しぶりだと思ってしまった。だが実際には二週間と経っていないのだ。思ったままに喋るのは憚られた。
しかし苗字の素直な言葉には、数日の間俺の頭にあった悩みの種を吹き飛ばすだけの威力があった。簡単に気分がよくなる自分に、俺はいっそう自身が分からなくなる。

電話口の苗字はこちらの思いなど構うこと無く終始楽しげだった。留守番組の連中は好調で、予定していた他校との練習試合に今のところ全勝していることを誇らしげに語る。スコアをつけながら、一喜一憂し選手を見つめる彼女の姿が思い浮かんだ。
ジローの起こし方は事前に向日と宍戸に教えていたようだ。半分寝ながら立っている状態ではあったが、毎朝何とか起きて練習に出ていることを教えると安心したと言う。母親かよ、と茶化してやろうかと思ったが、それより彼女に伝えてやりたいことがある。「苗字がいてくれれば」遠征中、そう言う奴がどれだけ多かったことか。
喜ぶだろうな。お前は。
日本に戻ってから話してやるのでも遅くはないが、弾む声を今、俺が聞きたいんだ。



「跡部」

呼ばれて振り返る。
仮入部届の束を手に、苗字が傍に立っていた。男子部員が何名、マネージャー希望が何名と今日までの累計を報告し、今年の新入生もテニス経験者が多いねと付け加える。手元の書類から俺へと視線がうつる様から目が離せなかった。
一年で変わったのは、マネージャーとしての有能さだけではない。背丈は俺の方が伸びたが、こいつも多少背が高くなった。何より顔立ちが、面構えが違う。

「なに?」
「……なんでもねぇ」
「変な跡部」

全くだ。だが、何もかもお前のせいだ。

やわらかな春の風が吹く。ざわめく俺の心など知らぬ顔で、それはまるで苗字のように朗らかに、笑うように吹き抜けていった。



2020/04/12
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